元石孝昭
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1957年に京都・梶与三男厩舎所属の騎手としてデビューし[1]、同年3月2日の中京第8競走繋駕速歩優勝競走・ミサキ(11頭中9着)で初騎乗を果たすと、同21日の阪神第1競走繋駕速歩50万下・プロミスで初勝利を挙げる[2]。1970年からは中山・元石正雄厩舎に移籍し[1]、1974年5月5日の新潟第9競走たんご賞・シャインゴールドが最後の勝利となり、同年10月26日の福島第6競走4歳以上200万下・アサムソウ(競走中止)を最後に現役を引退[3]。
引退後の1975年には元石正厩舎の調教助手となり、1976年に調教師免許を取得[1]。
1977年に開業し、1年目の同年は12月3日の中山第7競走4歳以上300万下・タケデンシャープ(11頭中4着)で初出走を果たすと、翌週の11日には朝日杯3歳ステークス・タケデンで重賞初出走ながらギャラントダンサーの2着に入った[4]。
タケデンは鴨田次男厩舎在籍時に京成杯3歳ステークスを制して[5]3連勝[6]した後、開業したばかりの元石厩舎[4]に移籍し[6]、転厩初戦[4]の朝日杯3歳Sではサクラショウリ・ファンタストに先着[7]していた。
1978年には東の4歳重賞第1弾京成杯に出走させ、1番人気に支持される[8]。レースは先行すると見られていたファンタストが最後方に控え、ペースメーカーを欠いたことで馬群は団子状態になり、タケデンは先頭を窺いつつ2番手を追走、他の面々もこれにつき従った[8]。直線でタケデンが抜け出し、負けじと内からサクラショウリが食らいつくと、外から凄まじい勢いでメジロファントムが加わって、最後は3頭が横一線となってゴールしたが、タケデンがハナ、ハナの激戦を制す[8]。元石は初勝利を重賞で挙げ[9]、3月26日にはスプリングステークスで重賞2勝目を挙げて初の2日連続勝利を記録[10]。クラシックは皐月賞が1番人気に支持されるも9着[6]、東京優駿13着[6]、主戦騎手の岡部幸雄から同じ15期生の福永洋一に交代した菊花賞も6着と掲示板にすら入れず[6]、菊花賞は福永にとって最後のクラシック騎乗[11]となった。
2年目の1978年はタケデンでの重賞2勝を含む12勝と初の2桁勝利[12]をマークし、3年目の1979年にはテスコガビーの半弟で東京大賞典を勝ったトドロキヒリュウ[13] [14]が転厩[15]。
1980年から1987年までは8年連続2桁勝利[12]を記録し、1981年には1月25日の東京で初の1日2勝[16]を挙げ、トドロキヒホウが郷原洋行とのコンビで東京4歳ステークス・弥生賞を連勝して皐月賞は1番人気に支持された[17]。安田記念ではタケデンに増沢末夫が騎乗し[6]、ジュウジアロー・サクラシンゲキを抑えて[18]重賞3勝[19]となった。
1982年にはトドロキヒホウが親交が深い[20]安田富男とのコンビでオールカマーを制すと[17]、天皇賞(秋)ではアンバーシャダイ・キョウエイプロミス・サンエイソロンの上位人気3頭に先着する4着[21]、郷原騎乗の第2回ジャパンカップでは9着に終わったがフロストキング(カナダ)・ジョンヘンリー(アメリカ)に先着し[22]、安田に戻した雨の有馬記念では15頭中15番人気でヒカリデユールの4着[17]と健闘。
安田とのコンビではマルゼンスキー産駒のデビュー3戦目となるニシノスキーで朝日杯3歳ステークスに挑戦し、下馬評は実力伯仲の大混戦であり、ビンゴカンタが人気を集めた[20]。デビュー3戦目で新馬を勝っただけのニシノスキーは7番人気の伏兵評価であったが、安田の脳裏には朝日杯で鮮烈なレコード勝ちをした父マルゼンスキーが浮かぶ[20]。ここは思い切って大逃げを打とうと決め、ダッシュで作戦通り先頭に立つ。前半3ハロン35秒1、5ハロン58秒3とペースは遅くなかったが、後続に脚を消耗させる流れでもあった[20]。その後も同様のラップで逃げて、直線は内ラチぴったりで、急坂を上がってから両腕とムチをフル稼働させ馬を追った。ニシノスキーの脚色は一杯であったが、無限のパワーを誇った父の血を搾り出した格好でもうひと粘りし、2番手追走のスピードトライの猛追をクビ差抑え切った[20]。単勝1380円、連複3930円と大舞台で高配当を叩き出したが、ニシノスキーは以後は未勝利で引退している[20]。
1983年にはダンシングファイタで重賞に昇格して1回目の中山牝馬ステークスを制し[23]、京王杯オータムハンデキャップでキヨヒダカの2着に入った[24]。
1985年には福島産馬アサカサイレントがニュージーランドトロフィー4歳ステークス3着に入ったほか、条件戦を大敗した後のオールカマーを勝利し、1986年の金杯(東)ではクシロキングの2着であった[25]。
1989年には自己最多の20勝[12]をマークし、1992年まで4年連続2桁勝利[12]を記録。
1990年には前年のキーンランドセールで52万5000ドルと当時の日本馬としては破格値で取引されたリンドシェーバーが入厩し、デビュー後はソエに悩まされながらも7月の札幌で新馬、特別戦を連勝[26]。新馬戦を8馬身差で快勝したスピードでクローバー賞も勝ったが[27]、圧倒的人気に支持された函館3歳ステークスは馬場の悪い所を通って2着と敗れ、捲土重来を期して朝日杯3歳ステークスに出走[26]。序盤は好位をキープしようとしたが、1000m通過が57秒7というハイラップに、やや位置取りを下げる[26]。ビッグファイトにマークされながら、各馬のポジションがめまぐるしく変わる中で4コーナーを回ってまず抜け出し、直線では柴田政人のムチに応えるようにインをすくったビッグファイトに差を詰められるが、手応え十分のリンドシェーバーは気合を付けられると後続を引き離してゴールへと飛び込む[26]。勝ち時計の1分34秒0はマルゼンスキーのレコードをコンマ4秒短縮するものであり、14年ぶりのレコード更新で「マルゼンスキーの再来」と言われた[28]。明け4歳になった1991年もヒヤシンスステークスをスピードの違いで4馬身差圧勝[27]したが、弥生賞ではイブキマイカグラの強襲で2着に終わり、主戦の的場均に「もう少しいい騎乗ができたはず」今も悔やませる一戦になった[28]。その後は調整過程で骨折が判明し、ファンに惜しまれる中、通算6戦4勝で引退[28]。
1991年には単枠指定制度が最後に適用された[29]セントライト記念にホリスキー産駒ストロングカイザーを出走させ[30]、鞍上の増沢はラジオたんぱ賞と同様に高速ラップが刻むツインターボを深追いしない程度に好位からプレッシャーをかけ、直線に入ってもツインターボの脚は鈍らなかったが、中山の急坂を上るに連れて2番手から差を詰める[29]。中団で運んだ最後の単枠指定馬レオダーバンも2頭を追いかけたが届かず、ゴール前ではストロングカイザーがツインターボをクビ差だけ交わしていた[29]。逃げ馬を測ったように差し切った技ありの勝利であったが、増沢の騎手時代最後の重賞勝利となった[29]。
1991年はエーピージェットが朝日杯3歳ステークスでミホノブルボンの3着[31]に入り、同馬で制した1992年の京成杯が元石にとって最後の重賞勝利[32]となった。
2004年8月28日の札幌第7競走3歳以上500万下をアサカユウジーンで逃げ切ったのが最後の勝利、10月16日の東京第5競走3歳以上500万下・タケデンノキボー(11頭中3着)が最後の出走となったが、共に手綱は弟子の吉永護であった[33]。
調教師成績
| 通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 出走回数 | 勝率 | 連対率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 平地 | 332 | 325 | 315 | 3563 | 4535 | .073 | .145 |
| 障害 | 9 | 11 | 13 | 78 | 111 | .081 | .180 |
| 計 | 341 | 336 | 328 | 3641 | 4646 | .073 | .146 |
- 主な管理馬
※太字はGIレース
- タケデン(1978年京成杯・スプリングステークス、1981年安田記念)
- トドロキヒホウ(1981年東京4歳ステークス・弥生賞、1982年オールカマー)
- ニシノスキー(1982年朝日杯3歳ステークス)
- ダンシングファイタ(1983年中山牝馬ステークス)
- アサカサイレント(1985年オールカマー)
- リンドシェーバー(1990年朝日杯3歳ステークス)
- ストロングカイザー(1991年セントライト記念)
- エーピージェット(1992年京成杯)