光禅寺
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慶長年間[註 1]に最上義光が自らの菩提寺とするため、現在の大石田町にある向川寺[註 2]の9世、春林禅冬を招請して開創した[1][註 3]。寺領は250石。当初は現在の七日町(当時の名称では三日町)にあり、慶長寺という名称であった[3]。最上義光は慶長19年(1614年)に没し、葬儀も慶長寺で行われた。この際、寒河江十兵衛尉ら4人が殉死している[4]。
その後、江戸幕府の社寺法規により年号を寺院名とすることが禁じられたため、元和年間に最上家親により光禅寺と改称された[5]。
元和8年(1622年)に最上氏が改易となって近江国大森藩に移封されると、磐城国の磐城平藩(現在のいわき市)から鳥居忠政が山形に転封された。忠政が父元忠の菩提寺である長源寺を平から移すことになった際、光禅寺の寺地を使用することとなった。このため光禅寺は現在地に移転させられ、義光や殉死者の遺骸も改葬された。移転にあたっては諏訪神社前にあり既に廃寺となっていた天正寺を移築したとされる。改葬には最上氏の浪人500人から600人が集まって義光の遺骸を光禅寺に運んだといわれ、その後も山形に残った最上氏の旧家臣らにより寺が護持されてきた[3]。移転の際に寺や住民と共に「三日町」の地名も同時に移転し、元の場所は「元三日町」と呼ばれるようになった[3][註 4]。
江戸時代に入っても光禅寺には義光から寄進された250石がそのまま幕府から朱印地として認められ、財政的には恵まれた寺院であった[5]。嘉永年間の記録によれば、6718坪の境内地に234坪の本堂があったとされる[4]。
明治27年(1894年)の山形市南部大火により、観音堂と鐘楼を残して全焼。貴重な宝物や古文書なども失われた[6][5]。現本堂は大正2年(1913年)の再建である[7]。