入江長八
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青年期

文化12年(1815年)、伊豆国松崎村明地(現・静岡県賀茂郡松崎町)に貧しい農家の長男として生まれた[1]。6歳の時に菩提寺である浄感寺の寺子屋に学ぶ[3]。11歳のとき同村の左官棟梁、関仁助のもとに弟子入りする[1][4]。駿河湾から強風が吹きこむため左官職人の多い土地だった。その当時から手先の器用さで知られた。
江戸での活躍
天保4年(1833年)に伊豆から江戸へ出た[1]。御用絵師である谷文晁の高弟狩野派の喜多武清(きたぶせい)から絵を学ぶ一方で[1][5]、彫刻も学んだ。絵画や彫刻技法を漆喰細工に応用し、従来は建物の外観を装飾する目的で漆喰壁に鏝(こて)で模様を描いていたものを、絵具で彩色して室内観賞用の芸術品に昇華させた。一方で、天保11年(1840年)には旅芸人の一座に加わっていた[4]。
天保12年(1841年)、江戸・日本橋茅場町にあった薬師堂の御拝柱の左右に『昇り竜』と『下り竜』を造り上げて、名工として名を馳せた[3]。弘化2年(1845年)、31歳の時に弟子2人を連れて故郷の浄感寺の再建に関わり[4]、『飛天の像』など鏝絵を作成しているが、鏝絵は一部だが天井に描いた『八方にらみの竜』は傑作とされる。
晩年
入江は江戸に戻り、浅草寺観音堂、祐天寺などを含む多くの場所で傑作を作り上げたと言われている。1877年(明治10年)には第1回内国勧業博覧会に出品した[4]。高村光雲は長八を名人と讃えている。晩年になり、1880年(明治13年)にも65歳で故郷を訪れ、岩科町役場や岩科学校などで制作作業を行っている。
1879年(明治12年)にアメリカ合衆国前大統領のグラント将軍が日本を訪れ、深川木場の豪商である丸山伝右衛門邸に立ち寄った際、長八制作のおかめ面を見てとても気に入った為、贈呈したところ後に凄いお礼が送られてきたとされる[6]。
1889年(明治22年)10月8日、東京市深川区八名川町(現・東京都江東区深川)の自宅で死去[3]。享年75歳。墓は故郷の浄感寺と浅草正定寺の2箇所に設けられている。
死後
1968年(昭和43年)1月にはつげ義春が山光荘[7]をモデルにした漫画『長八の宿』を発表したことで知名度が上がったとされる。
1986年(昭和61年)には故郷の松崎町に伊豆の長八美術館が開館した。また、松崎町の浄感寺本堂は長八記念館となっている。