丸山伝右衛門
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伝右衛門は上野国生まれの博徒。仲間内の頭となり「長脇差鬼伝児」の異名で通っていたが、改心し堅気になる決心をする。ある人物[注釈 1]を見込んでその下で奉公を始め、信頼を得た後に支援を受けて江戸堅川筋の本所五ノ橋(後の江東区亀戸6丁目)で材木店「信濃屋」を開いた[3]。
信濃伝の成功の一因として、当時川上の上野国から江戸へ木材を運ぶ際、河岸に引っかかって止まった木は地元の博徒が勝手に引き上げて金にし、咎める者があれば腕力で脅すのが慣習化しており、それが材木商の損益となっていたが、伝右衛門が博徒出身という仲間意識から、信濃伝の焼き印のある木材には一切手を付けなかったためと言われている[3]。またこの頃大火が町を焼き尽し木材相場が数倍に値上がりして伝右衛門の商売の大きな追い風となったこともあり、江戸の材木相場を動かすほどの大店に成長した[3]。
明治維新直後のころ、伝右衛門は開拓使の長を務めていた黒田清隆に北海道の良材を安く払い下げてもらって大きく儲けたとも言われる[4]。伝右衛門は東京盲唖学校の設立に際して杉板200枚を寄贈し、校舎は1879年(明治12年)12月に竣工した[5]。
王侯貴族と見紛うような豪勢な大邸宅を誇った伝右衛門は、屋敷庭園内に当時としては類を見ない四層の楼閣を建設[6]。高さは約15.75m(5丈2尺)で、見方によって三層にも五層にも見える不思議な和洋折衷建築だった。

1879年(明治12年)7月に落成祝いとして政財界の大物を招き盛宴を開いた[注釈 2]。同月来日していた前アメリカ大統領のグラント将軍も立ち寄ったと言われる[7][注釈 3]。
伝右衛門の娘・滝子は当時10代。木場小町と称され日本橋の老舗鰹節問屋にんべんへの嫁入り話が進んでいたが、自邸に来た黒田清隆伯爵に挨拶した際に見初められてしまう。黒田は当時40歳目前であり、後妻に滝子は若過ぎると同伴していた先輩格の五代友厚にも止められたが、それで諦めるような男ではなかった。数日後、酒に酔った黒田はピストルを手に丸山邸に乗り込むと、滝子を馬車に押し込んで連れ帰ったという[9]。黒田と滝子は1880年(明治13年)12月に結婚式を挙げた。滝子は1882年に長女の梅子を、1884年(明治17年)10月には黒田家嫡子となる清仲を出産している[10]。
1882年(明治15年)6月、近衛部隊のいる習志野へ臨幸した明治天皇が、翌日の休憩所として伝右衛門邸へ立ち寄った[11]。同邸は楼閣建設前の1875年(明治8年)6月にも同じく臨幸時の休憩所となっている[12]。
1884年(明治17年)秋、大阪中之島に敷地面積およそ900坪の五代友厚の大邸宅が完成。この建設にあたって伝右衛門は注文を受け唐木などを納めている[4]が、その僅か1年後の1885年(明治18年)に破産し店を閉めた[13][14][注釈 4]。
同じ木場の材木商である山本金蔵の長男・山本笑月[注釈 5]によると、あまりの豪奢に黒田清隆がつむじを曲げ、一切御用も止まり、それ以来左前となってついに借金王と呼ばれるほどの境遇となったという[15][注釈 6]。伝右衛門はその2年後、1887年(明治20年)に没した[16]。翌1888年(明治21年)4月、滝子は夫の総理大臣就任により、日本で2人目のファーストレディーとなる。
また伝右衛門は支援していた三代目・歌沢寅右衛門との間にも平田みきという娘がいた。みきは1871年(明治4年)に生まれ後に四代目を継いだ[17]。
庭の楼閣は山本金蔵が引き取り、1887年(明治20年)に自身が経営する浅草花やしきに移築してその翌年より公開。「奥山閣」と名付けた[注釈 7]。浅草十二階と呼ばれた凌雲閣と並び高層建築として評判だったが、1923年(大正12年)の関東大震災で焼失している[18]。
脚注
注釈
- ↑ 天福堂主人こと原胤昭[1]の父で、南町奉行所与力の佐久間健三郎か[2]。
- ↑ 伊藤博文、大隈重信、黒田清隆、渋沢栄一、他多数が集った[7]。
- ↑ この際にグラントは入江長八制作のおかめ面を見てとても気に入った。贈呈したところ後に凄いお礼が送られて来たという[8]。
- ↑ 結城素明の著書に「信濃伝はその後潰れたが、妹の方の娘さんは松倉町の質屋に嫁いだ」とあるが、これは滝子の妹の意か。また分家に信濃岩、信濃長、信濃巳之などがあり、これらは少なくとも1938年頃まで残っている[7]。
- ↑ 笑月は朝日新聞記者。同じく日本新聞や朝日新聞で記者をした長谷川如是閑の兄に当たる。
- ↑ 伝右衛門の高慢不遜な態度に怒った役人が報復として御用名簿から外したのが没落のきっかけという説もある。
- ↑ 屋上に取り付けた端鳥から鳳凰閣とも呼ばれた。移築に際に丘の上に建てられ、その斜面を削って煉瓦造りの地階を設けた[6]。
出典
- ↑ 小川太郎、中尾文策『行刑改革者たちの履歴書』矯正協会、1983年9月、104頁。NDLJP:12015602/59。
- ↑ 天福堂主人 編『立志美談』警醒社、1894年9月、94,100頁。NDLJP:758498/54。
- 1 2 3 天福堂主人 編『立志美談』警醒社、1894年9月、103-105頁。NDLJP:758498/55。
- 1 2 小寺正三『五代友厚』 全、新人物往来社、1973年、216頁。NDLJP:12496058/112。
- ↑ 『東京盲唖学校一覧』(明治22,24,25年)東京盲唖学校、38頁。NDLJP:813215/22。
- 1 2 初田亨『都市の明治:路上からの建築史』 全、筑摩書房、1981年9月、117頁。NDLJP:12421398/62。
- 1 2 3 結城素明『伊豆長八』芸艸堂、1938年、321-322頁。NDLJP:1261809/184。
- ↑ 結城素明『伊豆長八』芸艸堂、1938年、318-319頁。NDLJP:1261809/184。
- ↑ 『五代友厚秘史』五代友厚七十五周年追悼記念刊行会、1960年、321頁。NDLJP:3007242/199。
- ↑ 『人事興信録』(初版(明36.4刊))人事興信所、1903年4月、670頁。NDLJP:12986218/389。
- ↑ 明治天皇聖蹟保存会 編『明治天皇行幸年表』大行堂、1933年、206頁。NDLJP:1121017/105。
- ↑ 明治天皇聖蹟保存会 編『明治天皇行幸年表』大行堂、1933年、69頁。NDLJP:1121017/42。
- ↑ 明治編年史編纂会 編『新聞集成明治編年史』 第6巻、財政経済学会、1935年、36頁。NDLJP:1265069/46。
- ↑ 『江東区史』 全、江東区、1957年、1381頁。NDLJP:3041820/723。
- ↑ 信伝豪奢の四層楼 唐木造りの芸術的建築『明治世相百話』山本笑月、第一書房、1936(昭和11)年
- ↑ 中島靖子 編『邦楽公論』正派邦楽会、1992年3月、2巻9号 20頁。NDLJP:13243891/79。
- ↑ 『日本音楽』23 (2) (178)、日本音楽社、1967年6月、27頁。NDLJP:2236664/15。
- ↑ 浅草花屋敷:「遊園」から「遊園地」へ国立国会図書館