全日本農民組合同盟
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沿革
結成
1922年(大正11年)に日本初の全国的農民組合として日本農民組合(日農)が成立したが、日農内では共産主義者を含む左派を受け入れるか否かをめぐって対立が生じていた[5]。中でも平野力三の影響下にあった日農山梨県連は、日農の左傾化に強く反発していた[5]。1926年(大正15年)3月、日農第五回大会において、平野力三らが農民労働党設立の過程で日本労働組合評議会や政治研究会などの左派排除を画策したとして、追及が行われた[5]。また、同大会では日農関東同盟の廃止が決定され、平野らの日農における影響力が削がれた[6]。そうした中で日農山梨県連は、臨時大会を開いて日農脱退を決議し、脱退宣言を発表する。同年4月11日、日農から脱退した山梨県連と一部の福岡県連を中心として、東京・芝の協調会館で全日本農民組合同盟(全日農同盟)を新たに結成する[1]。
新たに結成された全日農同盟は、非共産主義者であることを参加資格として、反共主義の立場を明確にした[5]。また、日農が結成に関わった労農党は共産主義者の流入を許容しているとみて、新党樹立の方針を明らかにした[5]。同年10月7日、「農民は農民党へ!」をスローガンとして日本農民党を結党した[7]。
再合同交渉
1928年2月の第1回普通選挙での無産政党の苦戦、それに続く日農香川県連への弾圧、三・一五事件による日本共産党や労働農民党への弾圧によって、無産運動は大きな打撃を被った。そうした中で、農民組合統一への機運が再び高まった[8]。同年3月、日農・全日農・全日農同盟の各代表が合同懇談会を開いた。しかし、日農の山上武雄・小岩井浄らが「労農提携」「統一戦線」を掲げたのに対して、全日農同盟の平野力三は「農民は農民党に結集すべし」との立場を維持した[9]。結局、日農と全日農が合同して全国農民組合(全農)を結成したが、全日農同盟は参加しなかった[9]。
全農が結成されると、右派系農民組合でも合同の機運が高まるが、全日農同盟と日本農民組合総同盟の話し合いは決裂する[10]。1928年7月5日、全日農同盟の主唱により、全日農同盟・中部農民組合・神原農民組合・庄内耕作者連盟・香川県農民組合が合同して、名古屋で全日本農民組合を結成した[10]。