全国農民組合 (1928年)
From Wikipedia, the free encyclopedia
沿革
背景
1922年に農民組合の全国組織として日本農民組合(日農)が創設されたが、労農党の左派への門戸開放問題などをめぐって左右対立が生じる。その結果、1927年までに日本の農民組合は、労農党支持の日農、日本農民党支持の全日本農民組合同盟(全日農同盟)、日本労農党支持の全日本農民組合(全日農)などに分裂していた[3]。
農民戦線の再統一の要請が強まる中で、1928年(昭和3年)3月16~17日、日農・全日農・全日農同盟による三農民組合合同懇談会が開催される[4]。続いて4月5日には日本農民組合総同盟と中部農民組合も加わって、五団体の代表による全国農民団体合同協議会が開催される[5]。しかし、全日農同盟の平野力三が「農民は農民の党」との主張に拘り、協議は決裂した[5]。その後、日農と全日農の二者が接近し、5月10日に合同懇談会を開いて、政党問題を棚上げした上で合同を目指す方針を確認する[6]。
結成
1928年5月27日、日農と全日農が合同して、大阪市中央公会堂で全国農民組合(全農)の創立大会が開かれる[7]。中央委員長には杉山元治郎が選出される[8]。日農分裂の原因となった政党との関係については、無産政党の合同の促進に努力するとしつつ、合同の実現までは組合全体としてはいずれの政党とも支持関係を結ばないとし、個人での政党加入は自由とした[9]。
一方、全農に参加しなかった全日農同盟は、いくつかの地域農民組合とともに、7月5日に全日本農民組合を結成する[10]。これによって農民組合の全国組織は、全国農民組合、全日本農民組合、日本農民組合総同盟の三団体となった[10]。
1929年(昭和4年)1月、全農の中央委員会は政党問題について「従前通り政党中立の態度で進む」とし、「全国農民組合をあくまで死守する」とする、いわゆる「全農第一主義」の原則を決定した[11]。同年3月、全農の第二回大会で主張の改正が行われ、「小作料の減免」「立毛差押立入禁止反対」といった実践的なスローガンが掲げられた[11]。一方、同年4月の四・一六事件で多数の全農関係者が治安維持法によって起訴され、指導者を失った大阪・京都・新潟・千葉などの県連組織が大きな打撃を受ける。
1930年(昭和5年)、昭和恐慌で農産物の販売価格が下落する中で、農民運動はにわかに活発化し、争議件数も急増する[12]。
左右対立と分裂
1928年4月に労農党が結社禁止となり、同年12月に再建された労働者農民党も即日結社禁止となると、合法政党に代わって政治的自由獲得労農同盟(政獲労農同盟)が結成される[13][14]。1929年8月、政獲労農同盟の大山郁夫・細迫兼光・上村進らが、合法政党としての新労農党の再建を提案する[15]。一方、日本共産党は新労農党の合法的再建に反対する方針をとる[13]。大山らは政獲労農同盟を除名された後、同年11月に新労農党を結成する[16]。このような対立構図は全農内にも反映されて、合法政党支持派と合法政党反対派の抗争が激化していく[15]。
第二回大会以降、全農内左派の合法政党反対派は全農刷新有志団を名乗り、機関誌『農民闘争』を発刊して、大衆闘争の強化や社会民主主義者の排撃を訴える[17]。1931年(昭和6年)3月、全農第四回大会でついに合法政党支持派と反対派が衝突し、乱闘騒ぎとなる[18]。同年4月の拡大中央委員会では、合法政党支持派が中央常任委員を掌握し、無産政党の合同を促進する方針を決定する[19]。一方で、合法政党反対派は拡大中央委員会から総退場して、賛成派に対する「徹底的闘争」を宣言する[20]。これにより、全農の左右分裂は決定的となり、右派の合法政党賛成派は全農総本部派、左派の合法政党反対派は全農全会派として活動することとなる。
全農全会派
1931年8月、合法政党反対派は「全農改革労農政党支持強制反対全国会議」(全農全会派、全農全国会議)を結成し、機関紙『農民新聞』を発刊する[21]。『農民新聞』は全農総本部幹部を「社会ファシスト」「ダラ幹」と批判し、「労農政党支持強制」への反対を掲げた[22]。本部は東京に設けられたが、全会派の実質的な指導を行ったのは日本共産党農民部とその指導下の全会派本部内共産党フラクション(全会フラク)であった[23]。全会派はその運動形式として「農民委員会」方式を提唱した。これは、借金・税金滞納・賃金不払いといった小作人以外にも共通の問題を取り上げることによって、組合外に小作人以外の層を組織する戦術であった。[24]。
1932年1月、第二回全国代表者会議において、行動綱領・規約・運動方針・役員などを決定し、上田音市を全国委員長に選出する[25][26]。運動方針では、全農を「小作人組合」と規定してきたこれまでの立場を転換し、「貧農大衆の組織」であると規定した。全会派は、小作条件に対する闘争のみならず、借金や独占価格に対する闘争も含む「貧農のあらゆる日常利害に関係する闘争」を擁護するとした[27]。
全会派は当時非合法の共産党の影響下にあり、当局による弾圧が集中する。1933年(昭和8年)4月の第一回大会は、全国から東京に参集した代表者の大半が大会前に検束されたたため、開会不能となった[28]。そのような情勢の下で、全会派内からも共産党の指導下にある本部を批判し、合法的本部の確立を求める声が強まっていく[29]。1934年10月、全会派内の共産党フラクションが検挙されると、全会派内の非合法派は事実上消滅する[30]。一方、全農総本部においては農民運動の統一を重視する労農派の黒田寿男・岡田宗司・稲村順三らが中心幹部に就任し、全会派組合の総本部復帰を促進する[31]。1934年以降、全農全会派の組合は相次いで全農総本部へ復帰し、1936年8月の福佐連合会の復帰を最後に全会派は完全に消滅する[30]。
全農総本部派
合法政党賛成派は1931年4月の拡大中央委員会で総本部を掌握し、全国農民組合内大衆支持者代表会議の名で労農党・全国大衆党・社会民衆党の三党合同を求める声明を発表する[19]。同年7月に労農党、全国大衆党、社会民衆党内の合同派によって全国労農大衆党が結成されると、総本部派は全国労農大衆党を「団体として支持」する方針を決定する[32]。1932年(昭和7年)7月、全国労農大衆党と社会民衆党が合同して社会大衆党(社大党)が結成されると、全農内は社大党支持派と反対派に割れる[33]。
人民戦線事件から解体へ
1930年代半ば、全会派復帰後の全農の中枢では労農派と旧全農全会派が多数派を形成し、反ファッショを掲げるとともに、社会大衆党支持には批判的な態度をとった[34]。一方、旧日労党系や旧労農党系のように社大党との協力強化を図る勢力もあった[35]。
1937年12月15日、第1次人民戦線事件で全農総本部の黒田寿男・大西俊夫・岡田宗司・稲村順三らが検挙される。黒田・大西・岡田・稲村はいずれも社大党反対派である労農派に属していた[36]。労農派の全農幹部が一斉検挙されたことにより、全農は方針転換する。同年12月29日、中央常任委員会は声明を発表し、反共産主義・反人民戦線・社大党支持の立場を明確にするとともに、戦時下の農業国策への協力姿勢を表明する[36]。
さらに1938年2月1日、第2次人民戦線事件で全農幹部の伊藤実・江田三郎・山上武雄・佐々木更三らが検挙される[1]。これを契機に社大党は同党支持の新組合設立へと動き、旧日労系を中心として大日本農民組合(大日農)が設立される[1]。一方、旧全農全会派は大日農には結集せずに日本農民連盟を結成し、のちに東方会に参加する[1]。