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日本農民組合総同盟

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日本農民組合総同盟(にほんのうみんくみあいそうどうめい)は、1927年昭和2年)に結成された日本農民組合の全国組織。略称は日農総同盟日本労働総同盟系の組合を中心に、社会民衆党支持の農民組合として結成された。1931年全日本農民組合と合同して日本農民組合を結成するが、日本農民組合が国家社会主義に転じると、それに反対する社会民衆党支持派によって再建された。1940年解散。

沿革

第1次

1926年~1927年にかけての日本農民組合(日農)分裂を経て、日農は労農党支持、全日本農民組合同盟(全日農同盟)は日本農民党支持、全日本農民組合(全日農)は日労党支持の立場を明確になる中で、社会民衆党も同党を支持する農民組合の組織に動く[1][2]1927年(昭和2年)3月6日、日本労働総同盟系の関東醸造労働組合幹部によって組織された関東農民組合同盟を中心として、日本農民組合総同盟が結成された。会長には鈴木文治、副会長には片山哲が就任した。主張としては、耕作権の確立、小作料の合理化、団結権・争議権の確保などを掲げた[2]。結成当初は千葉・埼玉・神奈川に約400名の組合員を抱えるにすぎなかったが、1928年1月に全農同盟山梨県連を脱退した臼井治郎派が組合員1700人余を抱えて日農総同盟に加入するなど、組織を拡大する[2]。1929年末時点で支部数72、組合員数5143人[3]

1928年頃、農民運動が地主の攻勢や当局の弾圧に直面する中で、農民組合合同の動きが広まる。日農は農民組合の全合同を主張したのに対して、全日農同盟や日農総同盟は左翼色の強い日本農民組合を除いた右翼・中間組合の合同を狙う[4]。1928年1月、日農総同盟は中部日本農民組合に合同を申し込むが、中部日本農民組合側は回答を保留して全合同の斡旋に乗り出す[4]。同年3月、日農・全日農・全日農同盟・中部日本農民組合・日農総同盟の各代表による合同協議会が開催されるが決裂し、全合同の試みは失敗に終わる[4]。同年4月には右翼組合の合同を目指して、中部農民組合・全日農同盟・日農総同盟などによる合同懇談会が開かれるが、これも決裂する[5]

1930年(昭和5年)、第2回普通選挙での不振などをうけて、全日本農民組合との合同が具体化する。幹部の人選で合同協議は難航するが、1931年(昭和6年)1月27日に合同大会を開き、日本農民組合を結成する[6]

第2次

満州事変以後、社会民衆党内では赤松克麿国家社会主義を主張して勢力を拡大する。1932年(昭和7年)5月、社会民衆党を脱退した赤松派は日本国家社会党を結成する。日本農民組合内では平野力三らが国家社会主義を推進し、同年4月9日の中央執行委員会で国家社会主義新党を支持する方針を決定する[7]。一方で、それに反対する社会民衆党支持派は日本農民組合を脱退し、同年4月29日に第2次日本農民総同盟の結成大会を開く。会長には鈴木文治、副会長には片山哲が就任する[8]

1938年2月、社会大衆党本部において日農総同盟・全国農民組合(全農)・山形県農民組合・富山県農民組合連合会・兵庫県農民組合の各代表による新農民組合結成協議会に参加する。協議を経て大日本農民組合が結成されるが、日農総同盟は全農内の社会民主主義に反対する分子の排除を要求して参加しなかった[9]

1940年(昭和15年)7月16日、近衛新体制運動が展開される中で、当局の勧奨をうけて解散を決議する[10][11]

脚注

参考文献

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