内山駒之助
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1882年(明治15年)春に生まれる。出生地は不明。1897年(明治30年)に十代半ばでウラジオストックに渡り、アームストロング分工場で無線電信製作の技術を習得。同工場では当時非常に珍しかった自動車の修理も経験して1899年帰国した[2]。逓信省で働いていた従兄の市丸某に紹介してもらい同省の電気試験所に勤務。初見以来自動車に強く惹かれていた駒之助は1899年(明治32年)10月、横浜に自動車が来たと聞いて同地を訪問。実際に動く三輪自動車を目にしている[注釈 1]。
1901年(明治34年)冬、松井民治郎が銀座でモーター商会[注釈 2]を設立。陳列されたオリエント自動車を見るため駒之助は店に日参した。
1902年(明治35年)夏、自動車を仕入れるため前年より訪米していた吉田真太郎が帰国。経営不振となっていた松井のモーター商会を引き継ぎ、オートモビル商会とした[5]。毎日のように店に顔を出した駒之助は、元々自転車商で自動車の機械的なことに関しては素人だった吉田に誘われ、電気試験所を辞めてここの主任技師となる。吉田が持ち帰った12馬力の自動車エンジン[注釈 3]を組み込み、アメリカの車カタログなど数冊を参考に自動車を作製。木製の車体は芝区白金の間宮製作所に、内張りは芝区琴平町の木下製作所に、そして漆は築地の秋葉塗装所に依頼した[注釈 4]。完成した自動車は商品とするには品質が足りずその後解体したとされるが、溜塗の漆は見事な仕上がりだったという[6]。
続いて吉田と自転車の取引で伝手のあった広島市の杉本岩吉と瀬川貞吉が乗合自動車事業(日本最初のバス計画)を企画しオートモビル商会に自動車を発注[注釈 5]。エンジンは残っていた米国産の18馬力を使い、製作にはおよそ3ヶ月を要して1902年(明治35年)12月に完成した。駒之助は車用道路などまだない悪路を9日かけて広島まで運転し届けたが、身体への負担から到着後2日間は動けなかったという。3日目に試運転したところバルーンタイヤが破裂。やはりこれでは営業不能とアメリカへ強靭なタイヤを発注した。それを待つ間の4月、横浜の商館にあった馬車用ソリッドタイヤを取り寄せて営業を開始したものの、これも重さに耐えきれず伸びてしまう。結局2日営業し3日修理で休むといった不安定な状態が続いた[7]。
またある日、坂道の途中でトランスミッションが故障。駒之助は車体の下に潜って修理していたところ、対立していた乗合馬車屋が車体を押して駒之助の左腕が轢かれる事件が発生。使い物にならないとして自動車代金も半額しか貰えなかった事もあり、9ヶ月を超える広島滞在を切り上げて駒之助はついに東京へ戻ることを決めた[7]。この馬車屋の妨害は非常に激しく、瀬川や岩本らの乗合自動車事業は駒之助が広島を去ったのとほぼ時を同じくして1903年(明治36年)9月に断念された[注釈 6]。
この帰路で立ち寄った大阪立売堀の岡田商店でフォード社の幌型自動車を発見。この時丹念に取ったスケッチが後のタクリー号設計に大きく活きたと言われる[7]。その後、オートモビル商会は東京自動車製作所と改称。自動車の組み立てと販売を主とした[9]。
1905年(明治38年)有栖川宮威仁親王がフランスから4気筒35馬力のダラック号を持ち帰る。専属運転手はいるが自身でも運転する威仁親王は自動車に造詣が深く、東京自動車の人間は時折招かれては様々な質問を受けた。同年のある冬の日、葉山の御用邸へ呼ばれた吉田と内山は威仁親王の運転するダラックへ同乗する。葉山から逗子、鎌倉とドライブして来たところ、極楽寺坂の下りで路面凍結によるスリップが発生。民家の井戸端に衝突して走行不能となり、駒之助はその修理に当たる。この時に「自動車を直すことはできるが、作ることは出来ないか?」と問われ、お作り申し上げることが出来る旨返答したとされる[注釈 7]。
製作費は4千円でということで受注。東京自動車製作所は経営難で材料を購入する費用も無かったため、準備金として先に2千円を受け取った。取り掛かってみるとエンジンを造るのが予想以上に難しい。特に難しかったのはピストンなどの鋳物だった。何度造っても圧を懸けると吹き出してしまう。そこで埼玉県川口町で砲兵工廠の下請けをしていた熟練工の下に通い教えを請うた。10数回目の製作でやっと満足のいく物が出来、電気系統は芝浦製作所技師長・小林作太郎の力を借りて、1907年(明治40年)4月ついに日本初の国産ガソリン車が完成。ガタクリ走るので通称タクリー号と呼ばれた[1]。バッテリーやプラグ、そしてタイヤ以外は全て国産品を用いたという[注釈 8]。
この一号車はすぐに有栖川宮家に納められ、東京自動車製作所では同型の車を十七号車まで製造した。同年8月1日、この試乗を兼ねて威仁親王主催の遠乗り会が開催。財界の名士が集い、多摩川まで共に車を走らせている[注釈 9]。この自動車は威仁親王の声掛けもあって十四台が売れたが、三台が売れ残り東京自動車製作所の経営を圧迫[14]。洲崎の埋立地で行われた性能比較試験ではフォード車より優秀な成績を示したが、舶来品を珍重する欧米志向の風潮には抗えず製造中止に至った[15]。
1922年(大正11年)11月、駒之助は東京の洲崎埋立地で開催された自動車大競走第一回大会に出場。当時駒之助は自動車修理業をしており元々参戦の予定は無かったが、開催前日に藤本軍次より電話があり急遽スチュードベーカーで参加を決めた。結果10マイルを15分15秒のタイムで優勝。主催の報知新聞社よりトロフィーが贈られた。
1937年(昭和12年)5月13日、多摩川スピードウェイで開催の全日本自動車競走大会(第3回大会)の3日前に当たるこの日、1922年11月以来すべての自動車競走大会に出場を続けたと言われる駒之助は満55歳の若さでこの世を去った[16]。
脚注
注釈
- ↑ これは初めて日本の地を走った自動車とも言われていたプログレス三輪電気自動車[3]。横浜にあったアメリカ商館支配人の乗用とされ、1899年秋に横浜の波止場で転落しその後の消息は不明となった[4]。令和7年現在は1897年末に上陸したパナール・ルヴァッソールが最初の一台と考えられている。
- ↑ 日本初の日本人経営による自動車販売店。一台のオリエント自動車を販売するために設立された。
- ↑ 吉田は米国で12馬力と18馬力の2機のホリゾンタル2気筒ガソリンエンジンを購入し帰国。モーター商会から引き継いだオリエント自動車は朝鮮京城で薬種商を営む井上という人物が8千円で購入した。井上はウラジオストック滞在経験があり、自動車に造詣深く運転もできたという[5]。
- ↑ 3社はいずれも宮内省御用達の馬車職。
- ↑ 車体は欅製で12人乗り、8,500円以内で造ってほしいという注文だった。欅は比重が重いのに加え、当時珍しい屋根付きのため車体だけで重量1t超。これに12人を乗せて支えられるタイヤは国内ではこの頃作れず、アメリカに発注すると到着まで半年かかる。広島での開業予定が近付いていたことから4インチのバルーンタイヤで間に合わせた[6]。このバス計画には1902年1月にモーター商会からオールズモビルのガソリン車を購入していた鳥飼繁三郎も参画している。
- ↑ 当時は乗合馬車と人力車が一般的であり、新しい事業は競合から強い反発を喰らった。京都の例では人力車業者により何度も営業所を襲撃された為、バス事業主の福井九兵衛は短銃を携帯したとある[8]。
- ↑ 自動車会社の看板を掲げてはいたが、僅かに4尺旋盤一台の設備しか無かったため、社長の吉田は内山の返答を聞き非常に心配した。しかし内山は大阪で見た車の詳細なスケッチがあったので自信があったと言われる[10]。
- ↑ タクリー号は排気量1873㏄で12馬力[11]。小林作太郎の助力によって、二号車からはタイヤ以外全て国産となった[12]。またタクリー号というのはあくまで俗称で正式には特に命名されていない。警察庁登録名は「国産吉田式」[13]。
- ↑ これは日本で最初の遠乗り会とされる。威仁親王の35馬力5人乗りダラック以下、渋沢栄一のハンバー12馬力3人乗り、中上川次郎吉の東京自動車製4号車12馬力4人乗り、森村市左衛門の東京自動車製7号車、日比谷平左衛門の東京自動車製8号車、小栗常太郎のフォード24馬力5人乗、古河虎之助のマジソン35馬力7人乗、大倉喜七郎のフィアット60馬力7人乗、東京自動車製作所所有のハンバー12馬力、三越呉服店所有のクレメント10馬力貨車の計10台が参加した[14]。
出典
- 1 2 溝口兼治『自動車を育てた人々』産業能率短期大学出版部、1969年、世界の自動車 人名車名事典 43頁。NDLJP:12047760/122。
- ↑ 車日本史 1955, p. 40.
- ↑ 車日本史 1955, p. 191.
- ↑ 車日本史 1955, p. 37.
- 1 2 車日本史 1955, p. 39.
- 1 2 車日本史 1955, p. 192.
- 1 2 3 車日本史 1955, p. 193.
- ↑ 『バス事業五十年史』日本乗合自動車協会、1957年、48頁。NDLJP:2485332/64。
- ↑ 車日本史 1955, p. 194.
- ↑ 車日本史 1955, p. 196.
- ↑ 富田仁 編『事典近代日本の先駆者』日外アソシエーツ、1995年6月、120-121頁。NDLJP:13208325/63。
- ↑ 車日本史 1955, p. 197.
- ↑ 『国産車100年の軌跡:モーターファン400号・三栄書房30周年記念』三栄書房、1978年10月、212頁。NDLJP:12671839/108。
- 1 2 柳田諒三『自動車三十年史』山水社、1944年、34-35頁。NDLJP:1059512/30。
- ↑ 高田公理『自動車と人間の百年史』新潮社、1987年7月、31頁。NDLJP:12062656/19。
- ↑ 桂木洋二 編『日本モーターレース史:第1回日本GPから20年』GP企画センター、1983年7月、22頁。NDLJP:12441256/15。
参考文献
- 尾崎正久『自動車日本史』 上巻、自研社、1955年。 NCID BN04404754。
