鳥飼繁三郎
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広島に生まれる
繁三郎は1877年(明治10年)[2]広島市で生まれる。家は代々鍛冶屋を営んでいたが、新しい時代の乗り物に可能性を感じ転業。自転車の販売と修理の店を開いた[注釈 1]。1898年(明治31年)頃、神戸にあるアンドリウス商会(本店は横浜)のC・マンチニーがオートバイにて下関へ向かう際、広島辺りで不具合が発生。大手町一丁目[4]にあった繁三郎の店に立ち寄り、紛失したナットの製作を依頼した[5]。
この時オートバイに興味を持っていた柴義彦[注釈 2]は自分にも是非と試乗させてもらい、すっかり気に入って同氏に車体の手配を依頼。その後、神戸の自転車商・橋本商会にあるという連絡を受けて柴と繁三郎が共に神戸へ赴き、5台分を分解された状態で購入した。2人それぞれ組立てようと試みた結果、苦心に次ぐ苦心の末に柴が成功[注釈 3]。これが記録に残る日本人最初のオートバイ乗車、及び完成品の所有とされる[4]。
繁三郎は1901年(明治34年)にも神戸へ行き、米国人マンチニーからオートバイを購入[7]。また同年11月17日、世界一周自転車無銭旅行をうたい14日に下関を出発したばかりの中村春吉が広島市大手町に立ち寄った際、繁三郎が自転車のベルを修理している[8][注釈 4]。
繁三郎は1902年(明治35年)1月、東京にある松井民治郎経営のモーター商会[注釈 5]よりオールズモビルのガソリン車を購入[10][11]。これは日本全国でもおそらく10台目前後、広島では初の自動車であった。事業用の乗合自動車として友人数人で買ったようだが、実際に貸し自動車の看板を出して営業してみた[注釈 6]ところ、車体が小さい上に一台だけでは厳しかったと後に述べている[12]。
日本最初のバス
1903年(明治36年)に広島市の横川と可部の間において日本で初めてバスが運行された。これを企画したのは瀬川貞吉と杉本岩吉、技術面で協力したのが鳥飼繁三郎と柴義彦だったとされる[注釈 7]。料金は片道30銭[13]。東京のオートモビル商会に12人乗りのガソリン自動車を発注[注釈 8]。8つの窓を持つ馬車風の車両が完成すると、内山駒之助が運転し9日間かけて広島へ送り届けた[2]。1月から試乗を始めたがバルーンタイヤが重量に耐えきれずパンクを繰り返した為、馬車用のソリッドタイヤに変更して4月から営業を開始。しかし、度重なる故障や競合する乗合馬車屋の強硬な反対運動及び過激な妨害等によって同年9月をもって継続を断念した[16][注釈 9]。
また明治末頃の夏祭りの際には、観商場で世界一周パノラマ館(別名・水遊館)という見世物小屋を開設。様々な魚の入った水槽をガス灯で照らし、足元を船のデッキに見立て、小豆を転がして波音を再現。インドやエジプトなど世界各地の風景を描いた絵を見ながら各国の解説を聞くという趣向で、物珍しさから大勢の客を集めた[3][18]。
上京と飛行機への関わり
繁三郎は1909年(明治42年)に上京。吉沢某と共同で有楽町一丁目にKS商会というオートバイ修理と販売の店を開いた[注釈 10]。これは修理できる店が無く困っていた人たちで繁盛し、伊東巳代治や久米民之助ら名士の知遇を得た。特に川田龍吉男爵[注釈 11]は繁三郎の腕を買って各種機械類のメンテナンスを依頼。繁三郎は北海道当別の川田農場へ定期的に出張している[20]。
1910年(明治43年)12月、日本で初めて飛行機で空を飛んだ日野熊蔵陸軍少佐の依頼で玉井清太郎に米国産キャメロン式25馬力発動機を引き渡す[注釈 12]。繁三郎は翌年2月に三重県四日市の築港埋立地で行われた玉井式地上滑走機の試運転に立ち会っており、1912年(大正元年)8月には地元四日市で開発費不足に陥っていた清太郎に手紙を送り、機体輸送費の負担を約束して上京を促した[22]。
その後、TM商会(鳥飼モーターズ商会)の名称で輸入自動車の修理や販売をしていた繁三郎は、資金難に陥っていた飛行家の奈良原三次男爵に声をかけ、地方巡業飛行を企画[23]。1912年(大正元年)10月末から行われた巡業の興業支配人を務め、まずは故郷である広島で開催した。東練兵場で行われた公開飛行では実兄・山縣百太郎[注釈 13]とその三男で東高等小学校一年生だった豊太郎(1898年生)も来訪[26]。特別に同乗させてもらった豊太郎は飛行機操縦士を目指すことを心に決める[注釈 14]。続いて福岡、小倉、熊本、丸亀、岡山の各地を巡業。使用機体は奈良原式4号機「鳳号」で、操縦士は門下生筆頭の白戸栄之助が務めた[28]。
1913年(大正2年)9月7日、北海道の空を初めて飛行機が飛ぶという話を聞いて、札幌の興農園耕地に2千人の群衆が集まった。助手として玉井藤一郎(清太郎の弟)を連れ津軽海峡を渡った繁三郎は、自身を操縦士として30銭の入場料を取る興業飛行を企画。鳥飼式隼号[注釈 15]に乗り込むとおよそ150mの滑走の末に離陸したが、20mほど上昇したかと思うと不意に左に傾いて墜落した。幸いにも軽傷で済んだが、機体の修理を終え一週間後に再び挑戦しようとしたところ、現地警察より中止命令が下る。これは繁三郎が飛行家としての技量を持たないまま飛ぼうとしたことが露見[注釈 16]したためであり、早々に千葉県稲毛へ退散している[29]。
資金難の奈良原が航空界から離れたため、門下の伊藤音次郎が1915年(大正4年)1月末に独立。繁三郎は以後も近しい関係を続けた。上京して稲毛飛行場に顔を出すようになっていた甥・山縣豊太郎の口添えを受け、繁三郎は鳥飼式隼号を伊藤に貸与。伊藤は修理改造した隼号で飛行練習を重ねる傍ら機体製作も開始。玉井清太郎も稲毛で自作機を製作しており、年の近い2人は度々一緒に作業している[31]。その後、伊藤が東北巡業飛行の帯同を終えて帰った際、繁三郎は貸していた隼号のグレゴアシップ発動機の売却を伊藤に持ち掛け、1,200円で合意した[注釈 17]。
1916年(大正5年)1月に伊藤音次郎が帝都訪問飛行と称して千葉の稲毛海岸から東京の浜離宮まで往復55分の飛行に成功[33]。この時に使用した伊藤式恵美1号の発動機は、繁三郎の鳥飼式隼号に取り付けていたグレゴアシップ45馬力であった[34][注釈 18]。
同年、繁三郎は玉井清太郎を発動機研究家の友野直二に紹介。純国産飛行機を造りたいという清太郎の想いを受け、友野は自作発動機を無償提供した[36][注釈 19]。同じく1916年、清太郎は友野を通じて知り合った相羽有と意気投合し、羽田に日本飛行学校を設立。10月5日には玉井式2号機による初飛行を成功させ教官として生徒を指導していたが、翌1917年(大正6年)5月に墜落死した。
繁三郎は墜落し大破炎上した玉井式3号機のノーム空冷式50馬力原動機を手に入れると、苦心の末修理に成功。これは後に伊藤飛行機研究所の鶴羽2号機に搭載され、1919年(大正8年)5月の東京遷都50周年記念祭では繁三郎の甥・豊太郎が操縦して日本初の二連続宙返りを行った。
しかし翌年の1920年(大正9年)8月29日、その山縣豊太郎が千葉県津田沼の伊藤飛行場にて四連続宙返りに挑戦中、機体左翼が破損して墜落死する。遺体は麹町有楽町の事務所近くにある繁三郎宅に運ばれ通夜が営まれた[37]。
繁三郎は1921年(大正10年)6月に株式会社化された伊藤飛行機研究所の監査役に就任[38]。その後も有楽町一丁目で民間飛行機研究会の看板[注釈 20]を挙げていた[40][41]ようだが、昭和初期以降の動向は判っていない。当時のある自動車誌では「鳥飼君はいつも、この文明の利器の先駆をなして事業を起こすが、初期の早いためと、それからそれへと推移していくことが何よりの欠点であった。終始一貫自動車事業に従事せしめたならば、おそらく大成していただろう。」と評している[42]。
脚注
注釈
- ↑ 高さ3mの特製自転車を組立てて屋根の上から乗車、市内を乗り回して人々を驚かせた[3]。
- ↑ 広島第五師団で陸軍主計監を務めた柴直吉の四男で1881年生まれ。広島県における自動車運転免許の第一号取得者で後述するバスの運転も務める[4]。広島市上流川町で自転車商店を経営した[6]。
- ↑ 橋本商会に物は確かにあった。しかし5台分が分解された状態であり、その店では誰も組立て出来ないのでそのまま全て購入して広島へ送る。原動機の構造も知らず完全に手探り状態での組み立てであった[4]。
- ↑ 中村は翌1902年2月に横浜から香港へ渡り、西回りで地球を一周して1903年5月に帰国している。
- ↑ 1901年11月、銀座4丁目に開業した、日本で最初の日本人経営の自動車販売店[9]。その後、吉田真太郎が後を継いでオートモビル商会となった。
- ↑ 日本で最初の貸し自動車とされる[12]。
- ↑ 広島市舟入町の西遊廓で常盤楼を営んでいた瀬川は、繁三郎に次ぎ広島市で2番目に自動車を購入した人物。杉本は金庫業で手先が器用、物造りが得意だったとされる[2]。
- ↑ 発動機はアメリカ製の2気筒18馬力。シャーシは内山駒之助が造り、車体は名古屋の会社が請負って職人たちの手で造られた[14][15]。
- ↑ 瀬川らは再度計画を立て1905年(明治38年)2月からバスを運行させたが、やはり妨害や故障などが多く同年11月に廃業している[17]。
- ↑ 繁三郎の店舗の場所は帝国劇場の南側のブロック。出典に地図あり[19]。
- ↑ 男爵いもの名前の由来となった人物として知られる。1902年にロコモービル社の蒸気自動車を購入。日本で最初の自動車オーナーとされる。自身の農場などに先進的な諸機械を取り入れた。
- ↑ これは自動車用の発動機を繁三郎が飛行機用に改造したもの。玉井式2号機に用いられたが、連続で10分以上動かすと過熱により変調を来すため冷却時間を必要とした[21]。
- ↑ 広島市京橋町で山鳥自転車商会を経営[24]。1935年頃には町総代も務めている[25]。
- ↑ 豊太郎は高等小学校卒業後に叔父の繁三郎を頼り上京。伊藤音次郎の門下に入って飛行機操縦士となり、日本民間人初の宙返り飛行を成功させた[27]。
- ↑ 設計及び製作は奈良原式シリーズの製作主任であった大口豊吉。それに玉井藤一郎や山縣政夫(豊太郎の兄)らが手伝い3ヶ月程で完成した[29]。
- ↑ 繁三郎は車が運転出来れば飛行機も出来ると考えていたようで、飛行経験は稲毛海岸で一度隼号の試験飛行をしたのみ。その時も離陸直後に墜落している。疑いを持った札幌の警察が千葉へ確認したところ、そもそも飛行技術を持たない人物と判明し中止命令が出された。藤一郎は違約金支払いの担保として現地札幌の旅館にしばらく留め置かれた[30]。
- ↑ 伊藤は借金をして先に800円を支払い、残りは飛行会ごとにその収益から支払うこととした。この発動機のために造られた機体が恵美号で、制作費は400円だった[32]
- ↑ この時点で発動機は貸与だったが結局伊藤が買取る。その後恵美号ごと福長浅雄に買われ、天竜3号と改称して福長飛行機研究所で使われた[35]。
- ↑ 友野式90馬力発動機を取り付けた玉井式日本号が完成。1916年8月に玉井兄弟の故郷・四日市で公開飛行を行うが、機体が重かったせいもありついに離陸できずに終わった。
- ↑ 日本民間飛行研究会とも。少なくとも伊藤音次郎が帝都訪問飛行した1916年1月には既にこの名称が存在したことが確認できる[39]。
出典
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参考文献
- 佐々木烈『車社会その先駆者たち』綜合出版センター、1988年8月。 NCID BN03499201。
