内田瀞

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死没 (1933-09-03) 1933年9月3日(75歳没)
国籍 日本
出身校 札幌農学校卒業
内田瀞
『北海道農業開拓秘録』(1940年発行)
生誕 1858年8月13日
死没 (1933-09-03) 1933年9月3日(75歳没)
国籍 日本
出身校 札幌農学校卒業
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内田 瀞(うちだ きよし、1858年安政5年〉8月13日 - 1933年昭和8年〉9月3日)は高知県土佐藩士の家に生まれ、ウィリアム・スミス・クラークが教鞭をとる札幌農学校第一期生として学んだ人物。卒業後は開拓使に勤務したのち、北海道各地の殖民地選定事業に携わった。

1897年(明治30年)に松平直亮の松平農場の管理にあたり、開道五十周年記念会で拓殖功労者として表彰された。遺骨は旭川市(当時の東鷹栖町)の墓地にある。

1858年(安政5年)8月13日、土佐藩士の家に生まれる。1876年(明治9年)7月、札幌農学校第一期生として入学。1880年(明治13年)7月、札幌農学校卒業、農学士の称号をうける[1]。その後すぐ、開拓使に奉職した[2]

1881年(明治14年)9月、道路線原測のため北海道内探検。日高、十勝、北見、釧路、根室などの未開地の探検を進める。1886年(明治19年)8月、北海道庁にて殖民地選定に従事。1890年(明治23年)に殖民地選定完了。1891年(明治24年)、北海道殖民地選定報文を出す[3]

1893年(明治26年)、突然に休職を命じられる[2]。「真面目に仕事に打ち込んでいても、一片の辞令ですべてが終わるようでは、大事業を成し遂げられない」と憤慨した内田は、本来の専攻である農学に立ち返り、習熟したアメリカ式機械農業の経営を決意[2]。翌1894年(明治27年)雨竜郡深川村(現・妹背牛町)に内田農場を開設した[4]

そのうちに北海道庁から強く復職を命じられたため[2]、1895年(明治28年)10月、再び殖民地区画割に従事。1896年(明治29年)道庁内務部殖民課に勤務。1897年(明治30年)11月殖民地区画割完了し非職する。明治31年(1898年)伯爵松平直亮の貸下げを受けた松平農場の管理にあたる。以後、草創の鷹栖村の頭脳的役割を果たす。松平農場は湿地・泥炭地が多かったため、初めから排水溝の開削に力を注いだが、これが水田事業計画に生かされることになった[5][6]

1901年(明治34年)近文水利調査会長に就任。1905年(明治38年)近文土功組合初代組合が設立され組合長に就任。今日の美しい水田の基盤を築いた。1909年(明治42年)に退職するまで、松平農場にとどまらず、この地域の造田事業・米作の発展に大きな業績を残した。1908年(明治41年)松平直亮は内田の多年にわたる管理の努力と功績を表彰し、水田70町歩と記念銀杯を贈る。これが鷹栖村(後東鷹栖村)の内田農場で、場所は近文原野1~3線、16~17号で、旧松平農場の北東部に位置する。1918年(大正7年)開道五十年記念北海道博覧会において、松平農場は模範農場として表彰され、名誉金牌を受け、内田も道庁長官から拓殖功労者として表彰された[7]

1929年(昭和4年)妹背牛村の内田農場の小作人たちは、農場内に「内田瀞翁頌徳碑」を建立し、以後毎年お祭りが行われた。1933年(昭和8年)内田は静岡県伊東市で75年に近い生涯を終えた。葬儀は札幌独立基督協会で執行され、遺骨は遺言により東鷹栖村の墓地に納められた[8]

人物

内田瀞と同じく札幌農学校一期生であった佐藤昌介(北海道帝国大学初代総長)は、札幌農学校時代の内田を評して、「資性淡泊、寡言躬行、品性高潔、信仰の人にして学友に敬愛せらる」と記している。内田瀞の札幌農学校時代とその後の全生涯は、彼の精神上の支柱であるクラークから受けたキリスト教信仰抜きに語ることはできない。内田瀞の実孫で、後に養子になった内田健二は、祖父との生活を振り返り、「機会あるごとにクラーク博士を中心に、宗教・信仰・開拓などについての話をきかされた」と述べている。[9]

逸話

脚注

参考文献

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