内田瀞
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1858年(安政5年)8月13日、土佐藩士の家に生まれる。1876年(明治9年)7月、札幌農学校第一期生として入学。1880年(明治13年)7月、札幌農学校卒業、農学士の称号をうける[1]。その後すぐ、開拓使に奉職した[2]。
1881年(明治14年)9月、道路線原測のため北海道内探検。日高、十勝、北見、釧路、根室などの未開地の探検を進める。1886年(明治19年)8月、北海道庁にて殖民地選定に従事。1890年(明治23年)に殖民地選定完了。1891年(明治24年)、北海道殖民地選定報文を出す[3]。
1893年(明治26年)、突然に休職を命じられる[2]。「真面目に仕事に打ち込んでいても、一片の辞令ですべてが終わるようでは、大事業を成し遂げられない」と憤慨した内田は、本来の専攻である農学に立ち返り、習熟したアメリカ式機械農業の経営を決意[2]。翌1894年(明治27年)雨竜郡深川村(現・妹背牛町)に内田農場を開設した[4]。
そのうちに北海道庁から強く復職を命じられたため[2]、1895年(明治28年)10月、再び殖民地区画割に従事。1896年(明治29年)道庁内務部殖民課に勤務。1897年(明治30年)11月殖民地区画割完了し非職する。明治31年(1898年)伯爵松平直亮の貸下げを受けた松平農場の管理にあたる。以後、草創の鷹栖村の頭脳的役割を果たす。松平農場は湿地・泥炭地が多かったため、初めから排水溝の開削に力を注いだが、これが水田事業計画に生かされることになった[5][6]。
1901年(明治34年)近文水利調査会長に就任。1905年(明治38年)近文土功組合初代組合が設立され組合長に就任。今日の美しい水田の基盤を築いた。1909年(明治42年)に退職するまで、松平農場にとどまらず、この地域の造田事業・米作の発展に大きな業績を残した。1908年(明治41年)松平直亮は内田の多年にわたる管理の努力と功績を表彰し、水田70町歩と記念銀杯を贈る。これが鷹栖村(後東鷹栖村)の内田農場で、場所は近文原野1~3線、16~17号で、旧松平農場の北東部に位置する。1918年(大正7年)開道五十年記念北海道博覧会において、松平農場は模範農場として表彰され、名誉金牌を受け、内田も道庁長官から拓殖功労者として表彰された[7]。
1929年(昭和4年)妹背牛村の内田農場の小作人たちは、農場内に「内田瀞翁頌徳碑」を建立し、以後毎年お祭りが行われた。1933年(昭和8年)内田は静岡県伊東市で75年に近い生涯を終えた。葬儀は札幌独立基督協会で執行され、遺骨は遺言により東鷹栖村の墓地に納められた[8]。