刻目突帯文土器
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起源
時代背景と文化圏
文化圏と弥生土器の誕生
西日本一帯から東海地方西部に分布し、土器を含むひとつの文化圏をなし、中心は北九州である。北九州の影響は各地に及び、水田農耕の以前から西日本では北九州の影響が強い。刻目突帯文土器は、西日本の最後の縄文土器であり、水田農耕の開始の時期にも主要な土器であった。そして、縄文晩期末・弥生早期に、弥生土器が生まれた。なお、弥生土器が生まれた後も、西日本では次の弥生前期にも、刻目突帯文土器は土器の5割から1割を占めている。
縄文晩期末・弥生早期、土器の作成技法と器種の構成
この時代、朝鮮半島系の水稲耕作が始まった。この時の土器は刻目突帯文土器と、深鉢浅鉢からなる縄文土器だけである。この刻目突帯文土器に、数%、半島の技法を使う刻目突帯文土器が混じる。弥生土器が生まれるのは、その直後である。外見は縄文型で、無文土器制作の技法を使う、板付(いたづけ)Ⅰ式である。
弥生土器は、刻目突帯文土器の外見をたもち、無文土器の技法で作られる。この点で、弥生土器は、縄文土器に繋がる。
土器の構成は、縄文晩期、甕(かめ)と、鉢である。晩期末、水田が開始され、その時の土器は縄文系の甕と鉢だけだった。壺(つぼ)、高坏(たかつき)は水田農耕の祭りに使われるが、水田開始の時には発見されていない。しかし、壺、高坏は、次第に増えて行った。この壺、高坏は、朝鮮無文土器(むもんどき)の系譜を引く。
弥生前期、西日本への弥生土器の波及と、刻目突帯文土器
弥生前期、水田農耕を行いながら弥生土器を使う弥生文化が、西日本各地に急速に波及したが、九州南部へは遅れる。農耕の波及と共に、北部九州の弥生土器である遠賀川式土器(おんががわしきどき)が、瀬戸内、畿内、尾張の西日本に伝わる。しかし、縄文系の刻み目突帯文土器は1割から5割存在し、それ以前の各地の特徴を残している。この事から、北九州からの移住民と、各地の住人が一つの水田集落を営んだ事が分る。
西日本への水田と土器の波及は、尾張の中心を境に一度、停滞する。東日本は、西日本とは別の文化圏であり、境界を越えての波及が遅れたとされる。縄文時代、尾張より東は、東北の亀ヶ岡式土器(かめがおかしきどき)など、西日本とは別の土器を用い、別の文化圏をなしていた。なお、刻目突帯文土器は、尾張一帯に広がった時代もある。
