刻目突帯文土器

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刻目突帯文土器(きざみめとったいもんどき)は、西日本縄文時代晩期終末を代表する土器で、弥生土器に連なる簡素な形をしていた。この時代、土器の構成は、甕(かめ)と、浅鉢、深鉢が使われ、刻目突帯文は、甕にほどこされていた。代表的な刻目突帯文土器は、夜臼式土器(ゆうすしきどき)、山ノ寺式土器(やまのでらしきどき)[1]である。

夜臼Ⅰ式の甕。板付遺跡弥生館展示。

刻目突帯文土器(甕)の口縁部の外面に出っ張った突帯(とったい)が回る。突帯の文様は刻み目で、文様は連続する。形は弥生土器と同じく簡素で、東北の亀ヶ岡式土器に見られる火炎はない。九州では胴部にも刻目突帯を巡らす土器が一般的で、これを二条刻目突帯文土器と言い、二条甕とも言う。

起源

似たような土器は沿海州南西部の約4000年前 - 3000年前のシニ・ガイ文化にもみられ[2]、刻目突帯文土器およびこれを携えた弥生人の起源を沿海州南西部に求める見方がある。

時代背景と文化圏

文化圏と弥生土器の誕生

西日本一帯から東海地方西部に分布し、土器を含むひとつの文化圏をなし、中心は北九州である。北九州の影響は各地に及び、水田農耕の以前から西日本では北九州の影響が強い。刻目突帯文土器は、西日本の最後の縄文土器であり、水田農耕の開始の時期にも主要な土器であった。そして、縄文晩期末・弥生早期に、弥生土器が生まれた。なお、弥生土器が生まれた後も、西日本では次の弥生前期にも、刻目突帯文土器は土器の5割から1割を占めている。

縄文晩期末・弥生早期、土器の作成技法と器種の構成

この時代、朝鮮半島系の水稲耕作が始まった。この時の土器は刻目突帯文土器と、深鉢浅鉢からなる縄文土器だけである。この刻目突帯文土器に、数%、半島の技法を使う刻目突帯文土器が混じる。弥生土器が生まれるのは、その直後である。外見は縄文型で、無文土器制作の技法を使う、板付(いたづけ)Ⅰ式である。

弥生土器は、刻目突帯文土器の外見をたもち、無文土器の技法で作られる。この点で、弥生土器は、縄文土器に繋がる。

土器の構成は、縄文晩期、(かめ)と、である。晩期末、水田が開始され、その時の土器は縄文系の甕と鉢だけだった。(つぼ)、高坏(たかつき)は水田農耕の祭りに使われるが、水田開始の時には発見されていない。しかし、壺、高坏は、次第に増えて行った。この壺、高坏は、朝鮮無文土器(むもんどき)の系譜を引く。

弥生前期、西日本への弥生土器の波及と、刻目突帯文土器

弥生前期、水田農耕を行いながら弥生土器を使う弥生文化が、西日本各地に急速に波及したが、九州南部へは遅れる。農耕の波及と共に、北部九州の弥生土器である遠賀川式土器(おんががわしきどき)が、瀬戸内、畿内、尾張の西日本に伝わる。しかし、縄文系の刻み目突帯文土器は1割から5割存在し、それ以前の各地の特徴を残している。この事から、北九州からの移住民と、各地の住人が一つの水田集落を営んだ事が分る。

西日本への水田と土器の波及は、尾張の中心を境に一度、停滞する。東日本は、西日本とは別の文化圏であり、境界を越えての波及が遅れたとされる。縄文時代、尾張より東は、東北の亀ヶ岡式土器(かめがおかしきどき)など、西日本とは別の土器を用い、別の文化圏をなしていた。なお、刻目突帯文土器は、尾張一帯に広がった時代もある。

藤尾慎一郎の説

脚注

外部リンク

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