前川正義

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出身地 日本の旗 日本 愛知県
生年月日 1923年
没年月日 戦死
投球・打席 右投右打
前川 正義
基本情報
出身地 日本の旗 日本 愛知県
生年月日 1923年
没年月日 戦死
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手二塁手
プロ入り 1942年
初出場 1942年3月31日
最終出場 1942年9月16日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

前川 正義(まえかわ まさよし、1923年 - 戦死)は愛知県出身のプロ野球選手三塁手二塁手)。

東邦商業(現・東邦高等学校)在学中は、1940年春(ベスト4)、1940年夏(ベスト8)、1941年春(優勝)の甲子園に出場。1941年春には、三塁手として大会優勝選手に選出された[1]。2学年上には松本貞一猪子利男、同級生に、玉置玉一池端忠夫尾崎律男、2学年下には木村由夫がいる[2]

高校卒業後の1942年、東邦商業で同期だった玉置玉一が在籍していた阪神軍に入団[3]。しかし、当時の阪神内野陣の選手層は厚く、土井垣武,野口昇,三輪裕章,平林栄治らの名手に割って入る事は中々出来なかった。加えて投手として入団していた松本や玉置が、内野転向して活躍し始めた事により、出番が無くなっていった。1942年9月14日大洋戦が、プロ野球で唯一のスタメン出場(守備位置は、これも生涯唯一の三塁手だった)[4]。この試合ではこれまた唯一打席に立ち、三振に倒れた。結局この試合を含めて、プロ野球では5試合しか出場できなかった(後の4試合は守備固めとして出場。内訳は二塁手3試合、捕手1試合)。

戦争のさらなる激化により阪神軍には数ヶ月しか在籍する事ができず、1942年シーズン終了を待たずに応召され、戦死した(正確な没年月日、死没場所は不明)。20~23歳の短い生涯だった。

東京ドーム敷地内にある、鎮魂の碑には彼の名が刻まれている[5]

詳細情報

年度別打撃成績

















































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1942 阪神 5110000000000--0--01--.000.000.000.000
通算:1年 5110000000000--0--01--.000.000.000.000

背番号

  • 16 (1942年)[6]

脚注

関連項目

外部リンク

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