前田十郎左衛門は嘉永2年(1849年)、鹿児島城下で父・前田新之助(名は清政)、母筆子の子として生まれた 。名を清廉といい、明治2年(1869年)6月8日に慶応義塾へ入社し、次いで開成所、さらに海軍操練所に学んだ [2]。
明治3年(1870年)3月14日、海軍術修業のため、同じく派遣された伊月一郎(徳島藩)とともに英国留学を命じられた。両名は当初フィービー号に乗艦したが、その後、訓練上の都合から前田のみ旗艦リバプール号へ転乗を命じられたとされる。
しかし移乗後、前田は急速に精神状態を悪化させていった。通説では艦内においてイギリス海兵としばしば口論になり、侮辱されたのを憤慨して切腹したとするが、一方で高度のノイローゼによる割腹説がある。同行していた伊月の報告によれば、前田は極度の憂鬱状態に陥り、言語習得の困難や、派遣者としての重圧が強いストレスとなり、次第に厭世的気分を深めていたことがうかがえる[5]。
明治3年(1870年)10月7日早朝、リバプール号が南米バイア(現サルヴァドール)に寄港中、前田は甲板上で突然割腹自殺した[6]。伊月はホーンビ提督(Geoffrey T. P. Hornby)から通報を受け、直ちにリバプール号へ赴いて検視し、「腹部二ヶ所・咽部一ヶ所の切創」を確認したと報告している。
遺体は同日午後に陸揚げされ、バイア市内の教会で海軍士官礼により葬儀が行われた。後年、墓碑を日本から送る計画もあったが、明治43年(1910年)に巡洋艦「生駒」が現地を訪れた際にはユダヤ人墓地に埋葬されていることは分かったが、墓は荒廃して所在不明となっていた[8]。大正11年(1922年)に練習艦隊「浅間」「磐手」「出雲」が再訪したが、墓はついに確認されなかった
なお、十郎左衛門の弟・清憲の娘によれば、「十郎さあの悲報が薩摩に届いたとき、母の筆子は嘆き悲しみの余り、晩酌するようになったと、聞かされもした」と語っている。前田家ではのちに「十郎左衛門没後百年祭」が開催されたという。