伊月一郎は嘉永元年11月、藩医・伊月柳安の長男として、江戸三田四国町の徳島藩中屋敷に生まれ、その後八丁堀の藩邸に移った。文久2年、江戸在勤の藩士全員が引き上げることになり帰郷した。
慶応元年、徳島巽浜に洋学校が開設されると、伊月は同校で蘭学を学んだ。さらに慶応2年には藩命により芳川顕正らとともに長崎へ国内留学したが、維新の動乱により全員が帰藩した。
しかし伊月は自らの志を捨てずに東京へ出て、明治2年、築地の海軍繰練所に入学した。
明治3年3月、日本海軍兵学寮が派遣した航海学修業生として渡英し、イギリス提督ヘンドレス家に寄宿して薫陶を受けた。艦上訓練にも参加し、1873年には実戦にも参加したとされる。共に派遣された薩摩藩士・前田十郎左衛門は、同年10月7日南アメリカ・バイア寄港中に割腹自殺を遂げている。
明治8年に帰国後、同年10月15日に海軍大尉に任官し、乾行副艦長となった。明治11年には清輝副艦長として欧州各国を歴航し、明治13年に海軍少佐へ昇進した。
その後は摂津艦長等を歴任したのち、明治19年4月7日に海軍中佐へ進み、海軍兵学校教頭となった。明治20年2月には英国公使館付武官として単身ロンドンへ赴任し、明治23年10月に帰朝した。
明治24年4月、大佐に昇進し、同年には寛永年間以来の本姓「江戸」に改姓した。しかし在任中に咽頭癌を患い、明治24年6月3日に44歳で没した。墓所は江戸三田小山町の竜原寺にある。
伊月は「日本海軍から外国留学した最初のただ一人の人物」と称され、帰国後はイギリス海軍式の知識を日本海軍建設、とくに海軍兵学校の整備に大きく寄与したとされる。