前田政四郎
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和歌山藩士・大橋和樂の四男[1]。吉三右衛門の養子となり家督を相続した[1]。慶應義塾医学所(慶應義塾大学医学部の前身)の一期生。後に陸軍軍医監(少将相当)となる。
志を持って上京し、福澤諭吉と出会い友人となる。福澤諭吉に乗馬を教えるかわりに、英語の指導を受ける関係であった。 後に福澤諭吉が前田政四郎のために慶應義塾医学所を設けたエピソードは有名。
義和団の乱(北清事変、1900年)に第5師団軍医部長として出征していた政四郎は、陸軍省医務局に対して「日本米の支給で脚気患者を出し、中国米の支給で脚気を著しく抑えた。脚気に効果があるとされる麦飯の支給を希望する。」(前田報告)と麦飯の支給を要請した。その後、日露戦争で日本軍に多くの死者を出すことになる脚気に対し、前田政四郎は義和団の乱の時点で有効な対策を提唱していた。
略歴
- 1881年(明治14年)5月19日付[要出典]で函館砲兵隊の医官として函館に赴任。同地では余暇に診療所を開き、当時はまだ珍しかった種痘を行っている。
- 1900年、義和団の乱(北清事変)の勃発により、第5師団軍医部長として出征。
- 日露戦争に第11師団軍医部長(一等軍医正)として出征。
- 1906年(明治39年)12月3日、陸軍軍医監(少将相当)に昇進。
- 1907年(明治40年)1月23日、第4師団軍医部長
- 1908年(明治41年)5月15日、後進に路を譲るため病気と称し辞表を提出する。[要出典]
- 1910年(明治43年)6月29日、予備役編入。
- 1922年(大正11年)4月4日没。68歳。墓地は東京・染井霊園。