剣持章行
日本の和算家
From Wikipedia, the free encyclopedia
経歴
上野国吾妻郡沢渡(現在の群馬県中之条町)に生まれ、本業は農業[2][1]。幼いころから数学を好んだ[5]。小野榮重に師事し[5][3]、1824年(文政7年)には「小野栄重門人 上毛吾妻郡澤渡邑 剣持要七郎章行」として清水寺(高崎市石原町)観音堂に算額を奉納している[8]。1827年(文政10年)栄重から免許皆伝を与えられた[9][10][1]。同学の川北朝隣とともに関流七伝を称された。妻を持ったが意を決して離別した[2]とも死別した[1]ともいう。その後、江戸に出て、日下誠、内田恭などに学んだ。1839年(天保10年)ごろより遊歴を行った[11]。1840年(天保11年)、内田恭に就いた間、『探賾算法』を書した[11]。1859年(嘉永7年)5月、佐倉藩の数学所に呼ばれ講習を行い、測量術を稽古した[11]。
1871年(明治4年)に下総国香取郡(古城村)鏑木の門弟の山崎平右衞門(山崎青渓)の家にて、病死した[5][3][1]。享年82。戒名は「剣善要説居士」[3]。両総地方にも門下が多かったという[11]。1933年(昭和8年)4月、古城村に石碑が建立された[1]。千葉県旭市鏑木の墓所は旭市指定史跡(1972年4月26日指定)となっている[12]。