副島家
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副島種臣(文政11年9月9日生、明治38年1月31日没)は佐賀藩士枝吉種彰の次男だったが[2]、安政6年(1859年)に同藩士副島利忠(文化4年4月生、明治25年11月4日没)に養子に入った[3]。種臣は幕末に王事に尽くし、維新後には政府に出仕して明治2年より参議、明治4年から外務省に入省して樺太国境問題を担当し[4]、ついで外務卿に就任して樺太国境問題、マリア・ルス号事件、日清修好条規批准など様々な外交問題を手掛けた[3]。征韓論論争の際に西郷隆盛に同調して下野し、その後板垣退助とともに愛国公党や民選議院設立建白の運動に加わった[3][2]。明治17年(1884年)7月17年に維新の功により華族の伯爵位を与えられた[5]。その後、宮中顧問官、枢密院副議長を経て、第1次松方内閣に内務大臣として入閣した[4]。
明治38年(1905年)1月31日に種臣が死去したのちには、その三男道正が家督と爵位を相続。彼は宮内省に入って式部官を務めたほか、貴族院の子爵議員に当選して務めた[6]。また東明火災海上保険株式会社や中央開墾株式会社などの取締役を務めた実業家でもあり、学習院評議会員でもあった[6]。道正の代の昭和前期に副島伯爵家の住居は東京市渋谷区代々木上原にあった[7]。
道正が昭和23年10月13日に死去した後は、その長男種義(明治41年5月29日生、昭和39年3月2日没)、ついでその長男裕種(昭和24年1月22日生)と続いた[2]。裕種の代の平成前期に副島家の住居は神奈川県横須賀市久比里にあった[2]。
道正の四男種典(大正元年12月7日生、平成元年7月23日没)は愛知大学法経学部教授だった社会主義経済学者であり、日中友好協会会長だった[8]。