劉全諒
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劉正臣の子として生まれた。父の勲功により別駕・長史に任じられた。建中2年(781年)、劉玄佐が宋亳潁節度使となると、逸淮は召し出されてその下で牙将となり、決断力があり騎射に優れていることで知られた。劉玄佐は宗族の甥の扱いでかれを厚遇した。逸淮は都知兵馬使に累進し、太僕寺卿に試用され、御史中丞を兼ねた。貞元8年(792年)、劉玄佐が死去し、子の劉士寧が代わって宣武軍節度使となった。劉士寧は宋州刺史の翟良佐が自分につかないのではないかと疑い、いつわって出巡して宋州にいたると、逸淮を翟良佐に代えて刺史とした。貞元15年(799年)2月、董晋が死去すると、兵乱が起こり、陸長源が殺害された。逸淮は監軍の倶文珍に召し出されて汴州に赴き、知留後をつとめた。朝廷により検校工部尚書・汴州刺史・宣武軍節度・汴宋亳潁観察等使に任じられ、全諒の名を賜った[4][3]。9月9日、死去した[5]。享年は49。尚書右僕射の位を追贈された[4][3]。