劉在明

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劉 在明(りゅう ざいめい、生年不詳 - 948年)は、五代十国時代軍人本貫幽州[1]

若くして胆力があり、盧龍軍節度使の劉守光に信任されて用いられ、平塞軍使として出向した。劉守光が敗れると、在明は晋王李存勗に帰順して列校となった[1]

後唐明宗のとき、奉聖軍左廂都指揮使となり、和州刺史を遥領した。天成2年(927年)、明宗に従って汴州に赴き、鄭州に到着すると、朱守殷の乱の報が届き、反乱鎮圧の先鋒として用いられた。汴州の州城に到着すると、先頭に立って城壁を登った。反乱が平定されると、在明は汴州馬歩軍都指揮使に任じられた。応順元年(934年)、貝州刺史となった。清泰2年(935年)、趙州刺史に転じ、北面行営馬軍都指揮使を兼ね、軍を率いて易州に駐屯した。清泰3年(936年)、盧龍軍節度使の趙徳鈞が軍を率いて祁県の団柏谷に赴き、易州に立ち寄ると、在明は軍を率いて趙徳鈞に従った。趙徳鈞の兵が敗れると、在明は懐州に逃げ帰った。末帝の命を受けて河陽節度使の萇従簡とともに孟州を守った。石敬瑭が孟州に到着すると、在明は石敬瑭を迎えた[1]

後晋天福元年(同年)、高祖石敬瑭が洛陽を平定すると、在明は単州刺史として出向した。天福5年(940年)、李金全安州で叛くと、在明は李守貞に従ってこれを攻め、軍を破った。功により安州防禦使に任じられた。天福6年(941年)、絳州防禦使に転じた。天福8年(943年)、平盧節度使の楊光遠青州に拠って反乱を起こすと、在明は行営馬歩軍都指揮使となり、斉州防禦使を領知した[1]開運2年(945年)、在明は彰徳軍節度留後に転じた[2]。安国軍節度留後・建雄軍節度留後を歴任した[3]。開運4年(947年)、契丹太宗開封府に入ると、在明は開封府に赴き、入朝した[4]

天福12年(947年)、後漢の高祖劉知遠が即位すると、在明は幽州道行営都部署に任じられた。ときに軍が定州を守っていたが、在明は軍を出して経略し、遼軍を敗走させた[1]乾祐元年(948年)1月、成徳軍節度留後に任じられた[5]。3月、成徳軍節度使とに進み、検校太師を加えられた[6]。6月、病のため鎮州で死去した。侍中の位を追贈された[1]

脚注

伝記資料

参考文献

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