劉季箎
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1394年(洪武27年)、進士に及第した。行人に任じられた。朝鮮に対する使者をつとめ、贈物を一切受け取ることがなかった。1397年(洪武30年)、このことが洪武帝の耳に入り、季篪は衣服と宝鈔を賜り、陝西左参政に抜擢された。1400年(建文2年)、季篪は刑部左侍郎として召し出された。
1404年(永楽2年)11月[1]、『永楽大典』の編纂事業がおこなわれることになると、季篪は姚広孝や解縉とともに編纂にあたるよう命じられた。1410年(永楽8年)、刑事判断の遅滞について罪に問われて、獄に下され、両淮都転運塩司副使に左遷された。1411年(永楽9年)[2]、屈託逡巡して赴任せずにいたところ、再び獄に下された。長らくを経て釈放された。儒服を着て翰林院に属し、編纂にあたるよう命じられた。1417年(永楽15年)、工部営繕主事に任じられた。1424年(永楽22年)、在官のまま死去した。享年は61。