劉審交

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劉 審交(りゅう しんこう、877年 - 950年)は、五代十国時代官僚は求益。本貫幽州文安県[1][2]

若くして読書し、官吏の仕事に詳しかった。北平県主簿を初任とし、元城県令に転じた。盧龍軍に召し出されて牙校に任じられた。劉守光が皇帝を僭称すると、兵部尚書に任じられた。が滅亡すると、晋王李存勗に帰順し、諸府の従事に任用された[1][2]

後唐同光元年(923年)、趙徳鈞が幽州に駐屯すると、宦官馬紹宏が北面転運使となり、審交は召し出されて転運判官となった。天成3年(928年)、義武軍節度使の王都定州で反乱を起こすと、王晏球が反乱討伐を命じられ、審交は転運供軍使をつとめた。天成4年(929年)、王都の乱が平定されると、審交は功労により遼州刺史に任じられた。長興元年(930年)、再び転運供軍使となり、磁州刺史に転じた。老齢の母を養うため、官を辞した。母が死去すると、審交は喪に服して痩せ細ること礼の規定を超えていた。喪が明けても、審交は連年出仕しなかった[1][2]

後晋天福2年(937年)、范延光興唐府で反乱を起こし、楊光遠が総兵としてこれの討伐を命じられた。また審交は召し出されて供軍使をつとめた。范延光の乱が平定されると、審交は三司使となり、右衛大将軍に任じられた。天福6年(941年)夏、陳州防禦使として出向した。一カ年あまりして、襄州防禦使に転じた。襄州を統治して、治安を安定させ、民心をつかんだ。開運元年(944年)、青州の楊光遠の乱が平定されると、平盧節度使は青州防禦使に降格され、審交は青州防禦使に任じられた。検校太傅に累進した。軍乱の後で疲弊した民心をいたわり、民力を回復させた。開運4年(947年)、契丹が後晋を破ると、審交は開封府に帰還した。蕭翰の下でまた三司使として任用された。蕭翰が北帰すると、李従益が開封府にあり、高行周武行徳に軍事を委ねようとしたが、いずれも命を受けなかった[3][4]

天福12年(同年)、後漢の高祖劉知遠太原府で起兵し、史弘肇潞州に入ると、開封府の人々は恐慌を起こした。ときに遼軍1000人が開封府の諸門を守っていたが、李従益の母の王淑妃が劉知遠を迎えるよう文武の臣僚たちに諮った。反対論もあったが、審交が王淑妃の意見を支持したため、李従益は太原府に使者を出した。劉知遠が開封府に到着すると、審交は三司使を退任し、入朝した。乾祐元年(948年)、隠帝劉承祐が即位すると、審交は汝州防禦使に任じられた。汝州は難治の地で知られたが、審交は煩瑣な旧弊を除き、民衆に称賛された[5][6]。乾祐3年(950年)2月19日、死去した[7]。享年は74。太尉の位を追贈された[5][6]

家族

  • 祖父:劉海
  • 父:劉師遂[1]

脚注

伝記資料

参考文献

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