前漢の中山靖王劉勝の末裔にあたる。太子詹事府司直・雍州司功参軍・侍御史・考功員外郎をつとめた劉思立の子として生まれた。15歳のときに進士に及第した。上元2年(675年)、待制公車をつとめた。阜城県尉に任じられた。父が死去したため、三年の喪に服した。喪が明けると、武徳県尉に任じられた。白水県尉や伊闕県尉を歴任した。
右台監察御史に転じた。天授元年(690年)、殿中侍御史を経て、侍御史に累進した。来俊臣の罪を取り調べることとなったが、劉憲はかれの罪を憎んで縄で拷問したため、隣水県令に左遷された。王方慶や斉璿の推挙で太僕寺卿に任じられた。東突厥に対する征戦に従軍し、凱旋すると上柱国の位を受けた。ほどなく給事中に転じ、朝散大夫・中書舎人の任を加えられた。まもなく太僕寺少卿に任じられ、吏部侍郎に転じた。
張易之と仲が良かったため、かれが失脚すると罪に問われて渝州刺史に左遷された。ほどなく太僕寺少卿・修国史として長安に召還された。まもなく兵部侍郎に転じ、工部侍郎に転じた。再び兵部侍郎をつとめた。秘書監・修文館学士に任じられた。太子詹事・崇文館学士となり、皇太子の李隆基に仕えた。
景雲2年(711年)1月11日、長安の勝業里の私邸で病没した。享年は57。使持節・都督兗州諸軍事・兗州刺史の位を追贈された。著作に『文集』30巻があった。