劉煕 (徴士) From Wikipedia, the free encyclopedia 劉 煕(りゅう き、生没年不詳)は、中国の後漢末期の学者。字は成国。別名に劉熹。本貫は青州北海国。 後漢の安南太守[1]。博覧にして多識で名を成し、朝廷から辟されたが行かず、交州に避難したため人々から「徴士」と呼ばれた。蒼梧郡、南海郡を行き来して生徒は数百人おり、有名な弟子に許慈、薛綜がいた。また程秉が交州に避難してきた際は、彼と大いに論じ合った[2]。建安の末年(220年前後)に交州で亡くなり、崇山(武陵郡)に葬られた[3]。 著作に『諡法』三巻の注釈、『孟子』七巻の注釈、『釈名』八巻の撰[4]、『列女伝』八巻[5]などがあった。 脚注 [脚注の使い方] ↑ 『隋書』は安南太守とするが後漢末に安南郡は存在せず、『三國志集解』では南安郡か日南郡の誤記ではないか、としている。 ↑ 『三國志』許慈伝、薛綜伝、程秉伝 ↑ 『百越先賢志』 ↑ 『隋書』経籍 ↑ 『新唐書』女訓 Related Articles