劉瞻 (唐)
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大和2年(828年)、進士に及第した。大和4年(830年)、さらに博学宏詞科に登第した。節度使の補佐役を歴任した。咸通初年に入朝し、太常寺博士に累進した。劉瑑が宰相となると、劉瞻はその一族として厚遇され、推薦を受けて翰林学士となった。員外郎・郎中を歴任し、中書舎人となり、戸部侍郎・学士承旨に任じられた。太原尹・河東節度使として出向した。入朝して京兆尹に任じられ、再び戸部侍郎・翰林学士をつとめた。咸通10年(869年)、本官のまま同中書門下平章事(宰相)となり、中書侍郎を加えられ、刑部尚書・集賢院大学士を兼ねた[1][2]。
咸通11年(870年)8月、同昌公主が死去すると、懿宗の嘆きは尋常のものではなかった。翰林医官の韓宗紹や康仲殷らの用いた薬に効き目がなかったとしてふたりを収監し、さらには両家の家族や支党300人あまりを逮捕した。劉瞻はこれを強く諫める上疏をおこなった[3][4]。
懿宗は上疏を見て激怒し、その日のうちに劉瞻を宰相から罷免して、検校刑部尚書・同平章事・江陵尹・荊南節度使として出させた。まもなく劉瞻は康州刺史に左遷され、さらに驩州司戸参軍に降格された。鄭畋・高湘・楊知至・魏簹・張顔・崔彦融・孫瑝らは劉瞻と仲が良かったことから、みな左遷され追放された。京兆尹の温璋は毒薬を仰いで死去した。路巌らが李庾に命じて劉瞻をそしる詔を作らせて殺害しようとしたが、盧龍軍節度使の張公素が劉瞻を弁護したため、一命を免れた。咸通14年(873年)、僖宗が即位すると、劉瞻は虢州刺史に移された[5][6]。