路巌

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路 巌(ろ げん、829年 - 874年)は、唐代官僚政治家は魯瞻。本貫魏州冠氏県[1]

中書舎人・翰林学士路羣の子として生まれた[2][1]。幼くして聡明俊敏であった。大中年間、進士に及第した。父の友人が節度使となっていたので、路巌は書面と礼品を交わし合って召し出され、長いあいだその部下となっていた。咸通2年(861年)、屯田員外郎から翰林学士となった。中書舎人・戸部侍郎に累進した。翰林学士承旨・兵部侍郎となった[2][3]

咸通5年(864年)、路巌は本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった[4][5]。咸通6年(865年)、中書侍郎となった。咸通7年(866年)、刑部尚書を兼ねた。咸通8年(867年)、門下侍郎となり、戸部尚書を兼ねた[6]。咸通11年(870年)、尚書右僕射を加えられた[7]韋保衡に憎まれ、韋保衡が宰相となると、路巌は宰相を退任した。咸通12年(871年)、検校司徒成都尹・剣南西川節度使として出向した[8]。定辺軍を邛州に置いた。咸通14年(873年)、西山八国を来朝させて、功労により中書令を兼ね、魏国公に封じられた[2][3]

宰相のときに信任した官吏の辺咸の罪に連座して、路巌は荊南節度使に転じ、道中にさらに新州刺史に左遷された。咸通15年(874年)、荊州に着くと、免官され、儋州に流され、家の財産を没収された。新州に着くと、死を賜った[3][9]

脚注

伝記資料

参考文献

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