劉継勲
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後唐の天成3年(928年)、石敬瑭が魏博節度使となると、継勲はその客将となった。品行が端正で慎み深く、石敬瑭の幕下に従って、節度の官を歴任した。後晋の天福元年(936年)、高祖石敬瑭が即位すると、継勲は閤門使に抜擢された。淄州刺史として出向し、澶州防禦使に転じた。まもなく鄭州防禦使となった[1]。天福8年(943年)、左千牛衛大将軍となり、宣徽北院使をつとめた[2]。開運元年(944年)、宣徽南院使に転じた[3]。開運2年(945年)、華州節度使として出向した[4]。開運3年(946年)、同州節度使に転じた[5]。
少帝が契丹と絶縁するにあたって、継勲はその企図に参与した。大同元年(947年)、遼(契丹)の太宗が開封府に入ると、継勲は同州から入朝し、太宗にそのことを責められた。継勲は馮道が景延広と謀議して決めたことで、馮道が知っていると言い訳した。太宗が馮道主導説を認めず、継勲らが牽引したことだと断定すると、継勲は答えることができなかった。ときに継勲は病にかかっており、太宗が人を派遣して見舞わせると、継勲は中風にかかっていると答えた。太宗は「北方の地は涼しいので、病も癒るだろう」といって、継勲を禁固するよう命じた。ほどなく継勲は解放され、家で病没した[1]。天福12年(同年)、後漢の高祖が開封府に入ると、継勲は太尉の位を追贈された[6]。