劉遂清
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鴻臚寺卿の劉琪の子として生まれた。若くして聡明で、はじめ後梁に仕えて保鑾軍使となり、内諸司使を歴任した。同光元年(923年)、後唐の荘宗が開封府に入ったが、遂清はその職を改められなかった。天成元年(926年)、明宗が即位すると、遂清は検校尚書右僕射を加えられ、西都留守を委ねられた。天成2年(927年)、義武軍節度使の王都に反乱の徴候があったため、遂清は易州刺史に任じられ、その進攻を阻止した。天成4年(929年)、王都の乱が平定されると、遂清は検校司空を加えられ、棣州刺史に転じた。天成から長興年間にかけて、淄州・沂州・登州の刺史を歴任し、いずれも善政で知られた[1][2]。
応順元年(934年)、潞王李従珂が鳳翔府で起兵すると、遂清は李従珂に召されたが、逡巡して赴かなかった。清泰元年(同年)、末帝(李従珂)が洛陽に入ったと聞くと、遂清は三泉・西県・金牛・桑林の守備兵を全て集めて末帝に帰順した。散関以南の城鎮を全て放棄したので、みな後蜀のものとなった。遂清が入朝すると、末帝はかれを処罰しようとしたが、その才能を惜しんで赦した[3]。
後晋の天福2年(937年)、遂清は鳳州防禦使に任じられ、検校司徒を加えられた。母が死去したため、遂清は辞職して喪に服した。喪が明けると、遂清は内客省使・右監門衛大将軍に任じられた。天福6年(941年)、高祖が広晋府に行幸すると、遂清は宣徽北院使に転じ、判三司事を兼ね、検校太保を加えられた。天福7年(942年)、少帝が即位すると、遂清は右領軍衛上将軍を加えられ、そのまま竭誠翊戴保節功臣の号を賜った。天福8年(943年)、鄭州防禦使に出向し、検校太傅を加えられた。開運2年(945年)、安州防禦使に転じた。ほどなく上表して病を報告し、引退を許されて、帰還する途中に上蔡県までいたった。開運3年(946年)4月、郵舎で死去した[4][2]。