加山又造
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祖父・田辺玉田は北陸若狭の出身で[2]、京都で活動の後、旅をしながら各地の風景を描いていく「旅の絵師」となり[2][3]、旅先の一つ、広島県で結婚し、父・田辺勝也も広島で生まれた[2][3]。祖父は広島を中心に中国地方で画家として活躍し、作品が二点広島県立美術館に収蔵されている[2]。父は幼少期を広島で過ごした後に父(又造の祖父)と共に京都に移り住み加山勝也と改名[2]。西陣織の図案家(デザイナー)となり[3]、1927年、又造は京都で生まれた[1]。
京都市立美術工芸学校(現 京都市立銅駝美術工芸高等学校ならびに京都市立芸術大学)、東京美術学校(現 東京芸術大学)を卒業。山本丘人に師事[1]。戦時中は、学徒動員で山口県周防大島で勤労奉仕にあたり[2][3]、1945年8月6日、瀬戸内海の向こうに広島原爆のキノコ雲を見る[2][3]。後に「晴天の遥か彼方に、ピンク色の丸い雲がぽっかりと浮かび、地鳴りのような轟音が空気を揺るがした」と、その時の衝撃を振り返っている[3]。敗戦の記憶が、加山又造の芸術性に大きな影響を及ぼしたと言われている[3]。又造は岩国駅から無蓋貨車に乗り込み、焦土と化した広島を通過して故郷の京都に戻った[2]。一方、父・勝也は息子とはすれ違いで広島に向かい、自分の家があった場所や広島市内の親類の家を訪ね歩き、壊滅した広島の様子に大きな衝撃を受けて京都に戻るが、二人揃って京都で暮らし始めてから半年と経たずに父は風邪と栄養失調で世を去った[2]。加山は東京美術学校に復学するため母親と妹三人を京都に置いて再び東京へ向かう[2]。
1950年、春季創造美術展に「自画像」「動物園」が初入選、研究会賞を受賞[1]。
1966年多摩美術大学教授、1988年東京芸術大学教授に就任。東京芸術大学名誉教授。日本画の伝統的な様式美を現代的な感覚で表現し、「現代の琳派」と呼ばれた[1]。1970年代末からは水墨画にも取り組んだ[1]。1997年文化功労者に選ばれ、2003年文化勲章を受章[1]。2004年、肺炎のため東京都の病院で死去した[1]。

