勇山文継
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出自
経歴
河内国の人物。その前半生は不明であるが、その後の経歴から当時白丁の子弟でも入学が許されていた大学寮の文章生出身であったとされている。
弘仁元年(810年)に同族の勇山家継[5]・真継らと共に勇山連の姓を賜与される(この時の位階は従八位下)。間もなく従六位下・紀伝博士に叙任。翌弘仁2年(811年)外従五位下に叙せられると、紀伝博士在任のまま、大学助と相模権掾を兼務した。弘仁6年(815年)家継らと共に本貫が平安京右京に移される。弘仁7年(816年)嵯峨天皇に『史記』を進講した功績により内位の従五位下に叙せられた。その後、勇山連から安野宿禰に改姓。嵯峨朝末の弘仁14年(823年)従五位上に昇叙される。
淳和朝に入ると、天長3年(826年)正五位下、翌天長4年(827年)従四位下と急速に昇進、またこの間に皇太子・正良親王(のち仁明天皇)の東宮学士にも任ぜられている。天長5年(828年)10月26日卒去。享年56。最終官位は東宮学士従四位下。
漢詩人として、勅撰漢詩集三集(『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』)のいずれにも撰者を務めており、中でも『文華秀麗集』『経国集』には1首ずつ漢詩(七言律詩)作品が採録されている。
官歴
『日本後紀』による。