学問に優れた人物で、東坊城聡長の推挙により仁孝天皇の御前講義の講師を務めることになり[1]、天保7年(1838年)以降、伊藤東涯の『論語古義』『孟子古義』の講義を担当している[2]。また、前述の聡長が関白鷹司政通から天皇が進める新しい学校機関(後の学習院)設立構想の御用掛に任じられた際に、(自分と同じ)菅原氏や清原氏に人々に適任者がいないため、老練で学識もある資善が相役にすることを条件に引き受けている[1]。仁孝天皇崩御後の諡号選定においては、本来の役目である東坊城聡長ら菅原氏の公卿に加えて、天皇に近く学問を良くしたことを理由に資善と日野資愛も諡号案選定に加えられた[3]。