勝俣久作
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神奈川県箱根町出身で、農家の次男に生まれる。勉強好きで、寺の住職に面倒を見てもらいながら高等小学校に通う。卒業後は代用教員をしながら猛勉強し上京[3]。國學院大学高等師範科に進学し、三矢重松、折口信夫に学び[1]、1924年に卒業[4]し、東京帝国大学史料編纂掛に嘱託として勤務し、1926年3月に退職[5]。同年1月には第43回師範学校、中等学校、高等女学校教員検定本試験に合格[6]し、その後旧制麻布中学校の国語教師を務める[7]。当時の渾名は「サルマタ」[8]。教え子には吉行淳之介や北杜夫などがいる。
戦後、突然学校をやめて事業を始めるも、ことごとく失敗する。会社勤めも上司とうまくいかず、生活は苦しかったが、帰宅すると仕事とは関係ない勉強をし、飲んで帰っても早朝に勉強していた[3]。その後、代々木ゼミナール創設者の一人として副校長[1]兼古文教師となる。
人物
- 本人は学者を志望していたが、高等小学校卒という学歴に劣等感があり、子供の教育に力を入れるようになる[3]。吉行淳之介は「先生のおかげで国語の時間に魅力を感じるようになった」と語る。北杜夫はもともと文学作品に興味がなかったが、作文の時間、勝俣に夏目漱石『夢十夜』の中から3つ4つの短文を読んでもらって面白いと思い、『夢十夜』『草枕』を読んだという[9]。
- 国文学と国史を愛し、折口信夫や金田一京助らが主催する研究会にも参加し、民俗学も学ぶ。1927年(昭和2年)、故郷の歴史を綴った「箱根仙石原村史略」をまとめた[10]。
- 「祖先は山梨の山賊上がり」と冗談をよくこぼしていた。祖先は武田信玄を抱えた「武田軍団」の一人で、軍団の崩壊で勝俣一族は神奈川県の仙石原に逃げ込み、籠付きで生活していたが「食えないから追いはぎもよくやった」というのが酒宴の笑い話[11]。