勝田四方蔵
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長州藩士・勝田光忠(七三郎)の三男として生まれる[1][3]。維新後は陸軍に奉職し、明治5年3月15日(1872年4月22日)、陸軍中尉に任官。西南戦争では第3旅団参謀をつとめた。
1884年(明治17年)3月、工兵第1方面提理に就任。続いて1887年(明治20年)6月、工兵会議議長となり、工兵科の成長に携わった。
1894年(明治27年)11月、第2軍工兵部長に発令され、日清戦争に出征。少将進級後の1895年(明治28年)4月、下関要塞司令官に就任し、以後、東京湾要塞司令官、二度目の下関要塞司令官を歴任した。中将昇進後の1901年(明治34年)に休職。
1904年(明治37年)2月、留守第12師団長として復帰し日露戦争を迎えた。1907年(明治40年)3月予備役に編入され[4]、同年9月21日、男爵を叙爵し華族となり、貴族院男爵議員を1911年(明治44年)7月10日から[5]死去するまで勤めた[6]。
年譜
- 明治5年(1872年)
- 1877年6月7日 - 少佐
- 1884年(明治17年)3月3日 - 工兵中佐、工兵第1方面提理
- 1887年(明治20年)
- 1889年(明治22年)11月2日 - 工兵第2方面提理
- 1894年(明治27年)9月25日 - 第2軍工兵部長
- 1895年(明治28年)
- 1897年(明治30年)10月23日 - 東京湾要塞司令官
- 1899年(明治32年)3月13日 - 下関要塞司令官
- 1900年(明治33年)5月22日 - 陸軍中将
- 1901年(明治34年)6月26日 - 休職
- 1904年(明治37年)2月5日 - 留守第12師団長
- 1906年(明治39年)2月13日 - 休職
- 1907年(明治40年)