化粧坂
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名の由来
鎌倉時代・南北朝時代の化粧坂


史料上では鎌倉時代の『吾妻鏡』建長3年(1251年)12月3日の条で、「鎌倉中小町屋の事定め置かるる処々」の中に「気和飛坂山上」と出てくるのが初見である。ただし『吾妻鏡』には複数の写本があり、北条本には「乗和飛坂」とある。このことから吉田東伍の『大日本地名辞書』では「乗和」をアマノワと読み甘縄の魚町との説も出しているが、あまり賛同は得られていない。
元弘3年(1333年)の鎌倉の戦いで、新田義貞は軍勢を三つに分けて鎌倉攻略を図った。『太平記』巻十にある「鎌倉合戦の事」によれば、化粧坂方面には新田義貞本隊が当たっている[4][注 1]。一方、鎌倉軍は金沢忠時が迎え撃った[4][注 2]。
『梅松論』には化粧坂の名は出ないが化粧坂山上の北側の「葛原」が戦場として登場する。結局、新田義貞は軍勢が退却した極楽寺坂方面に向かうが、攻略は困難と判断して稲村ヶ崎から鎌倉に攻め入った[4]。
以上から「葛原ヶ岡」のすぐ傍の「化粧坂」が当て字で「気和飛坂」となることによって、『吾妻鏡』・建長3年(1251年)12月3日の条にある「気和飛坂」が現在の「化粧坂」となる。
鎌倉の世界遺産登録に向けて行なわれた2000年(平成12年)度、2001年(平成13年)度の調査では、名越坂とともに、化粧坂で荼毘の跡が発見された[5]。
「化粧坂」の道筋
「化粧坂」の現在
また鎌倉滅亡の2年前、元弘元年(1331年)の元弘の乱で捕らえられた日野俊基がこの坂上で首を切られた。明治時代になって日野俊基を祭る葛原岡神社が建てられ、現在は日野俊基の墓も建てられている。
現在は鎌倉の内側(鎌倉中)への下り坂が、1969年(昭和44年)11月29日に国の史跡に指定されているが[6]、道の痕跡はいくつもあり、鎌倉時代にどのルートであったのかは必ずしも明らかではない。
また、その外側の道も不明であり、1882年(明治15年)の帝国陸軍のフランス式1/20000地図には梶原方面への道が一番太いが、その他に洲埼方面への尾根沿いの道、また北鎌倉方面への数本の道、また北条常盤亭方面への尾根道も記載されており、尾根道の交差点であるかのような姿となっている。

