北京機関
ソ連共産党・中国共産党の指導下時代の日本共産党における党指導組織
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発端
当時日本を占領統治していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、1950年にレッドパージを開始して日本共産党に対する締め付けを強化していた。徳田ら幹部が団体等規正令の出頭命令を拒否したことによる団規令事件で逮捕状が出され、幹部の多くは地下活動に移った。伊藤律の回想によると、この状況を受けて毛沢東が直接「徳田を日本から救い出せ」と指示したことが、北京に移るきっかけの一つであったという[2]。徳田は当初渡航に強く反対したが、8月上旬頃に極秘に開かれた政治局会議で中国への渡航が決まった[3]。8月15日、徳田が伝書使として中国に派遣した宮島義勇が帰国し、「日本共産党の指導者を迎え入れる用意がある」という中国共産党の意向を徳田に伝えた[4]。10月に徳田は大阪湾から船で密かに出国し、北京に渡った。
経緯
1950年4月に安斎庫治らが中国に渡り、北京機関の準備を開始[5]。8月末に徳田球一・西沢隆二が、9月に野坂参三らがそれぞれ中国に亡命。同月北京機関が結成された[6]。1951年秋、伊藤律が北京機関に移る。1952年10月末、伊藤に対しスパイ容疑で隔離調査することを北京機関が決定[7]。1954年夏、野坂・紺野与次郎・河田賢治・宮本太郎・西沢の6人の代表が、ソビエト連邦共産党・中国共産党両党代表とともに日本共産党第6回全国協議会決議原案をモスクワで作成した。モスクワにいた袴田里見もこれに部分的に参加し、9月からは北京機関指導部に加わった[8]。1955年1月13日付「日本共産党中央委員会北京局 紺野与次郎・河田賢治・袴田里見・西沢隆治」名により、ソビエト連邦共産党に対し資金援助を要請[9]。1957年7月、袴田・河田が帰国。1958年7月13日、第21次在中国日本人引揚船白山丸で、北京機関従事者のほとんどが帰国した[10]。
名称
北京での施設・設備
- 北京機関の施設
- 北京機関の施設は北京西郊にあり、周囲は鉄条網をはった高い堀で、中国公安部隊が守備をし、新築された専用の大邸宅は幹部用の二階だった。
- 自由日本放送
- 北京機関の指導下で、日本向けの「自由日本放送」が、1952年5月1日から開始され[13]、1955年12月31日に閉鎖された[14]。
- 日本共産党中央党学校
- 北京機関のもとで、1954年1月から1957年3月まで、関係者千数百人から二千人規模の日本共産党中央党学校が北京郊外に設立・運営されていた[15][16]。生徒は、日本の敗戦後まで工場や学校など中国国内で働いていた日本人で共産主義に共鳴していた者のほか、日本国内から密出国した者もあった。党学校参加者の多くは、1958年7月に引揚船白山丸で帰国したといわれる。
おもな構成員
書記長の徳田を中心としたメンバーであったため所感派に属する者が多かった。
- 徳田球一 - 1953年に北京で死去(1955年に日本で死が公表された)。
- 野坂参三 - 1955年に帰国。1992年に除名処分を受けた。
- 高倉輝 - 1950年6月公職追放、その後ソ連・中国その他を転々とし、1959年4月に帰国。
- 紺野与次郎
- 聴濤克巳 - 1950年公職追放、北京機関メンバーとなり、自由日本放送の業務にも従事。のち党代表としてヨーロッパで活動。1958年帰国。
- 河田賢治
- 西沢隆二
- 伊藤律 - 1953年に除名処分を受け収監。1979年に身柄解放され、1980年に帰国。
- 袴田里見 - 国際派だが、中ソ共産党に党分裂問題への介入を要請するため、一時期北京に滞在した。
椎野悦朗・吉田四郎(北海道地方委員会議長)は、志田重男の代理として北京機関入りを指令されていたものの、伊藤のように嫌疑をかけられる危険を感じて、密出国船(いわゆる「人民艦隊」)乗船直前に渡航を拒否した、とされる[17][18]。
日本に残された臨時中央指導部
参考文献
- 伊藤律『伊藤律回想録―北京幽閉二七年』文藝春秋社、1993年
- 伊藤律書簡集刊行委員会(編)『生還者の証言 伊藤律書簡集』五月書房、1999年
- 日本共産党中央委員会『日本共産党の七十年』全3冊新日本出版社、1994年、ISBN 978-4406022576
- 日本共産党中央委員会『日本共産党の八十年―1922~2002』日本共産党中央委員会出版局、2003年、ISBN 978-4530043935
- 藤井冠次『遠い稲妻 伊藤律事件』驢馬出版、1986年
- 「日共の革命教育はこうして行われた 元学生が語る北京『馬列学院』の全容」サンデー毎日、1961年3月特別号