箱根権現に入寺しており、箱根権現社別当職を継承することを予定されていたとされる。
永禄12年(1569年)、武田氏による駿河侵攻からの北条氏との敵対により、三増峠の戦い後の第三次駿河侵攻の際に武田勝頼の攻撃を受け、駿河蒲原城(静岡県)に篭城するが落城、兄である氏信(北条綱重)と共に討死した[1]。
法名は融深(妙覚院融深殿)[1]。法名は他に長順・覚胤と伝えられている[3]融深の「融」字は宗哲から別当職を継承した融山の一字を承けたものであり、「長」「覚」の字も、父の関係者に多く見られるものであるから、法系ごとに数種の法名を有していたと考えられている。