北海 (複葉機)
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1926年(大正15年)、小樽新聞社と北海タイムス(双方ともに北海道新聞の前身)が販売合戦の一環として飛行機の導入を競う過程で、東亜飛行専門学校と伊藤飛行機製作所の協力を得た小樽新聞社は、伊藤音次郎の伝手で日本海軍払い下げの一〇式艦偵を2機入手し、伊藤飛行機製作所で整備を加えるとともに「北海」と命名した[5]。
北海第1号機は完成後、同年8月20日に拠点となる札幌興農園耕地を目指して東京立川からの縦断飛行を行ったが、着陸後のタキシング中に水はけ溝にはまり込み、着陸脚が破壊される事故を起こしている。その後、8月31日には北海第2号機も興農園にて初飛行し、以後北海は宣伝ビラの散布などに使用された[6]。
千歳着陸場と北海
1926年8月、北海道鉄道札幌線(現千歳線)開通に伴い、小樽新聞社が千歳にあるサケのふ化場の見学を兼ねた旅行会を企画した[1][8][7]。
ところが、千歳には食堂がなかったため、新聞社が村にお茶などを用意できないか依頼したところ、村は昼食の提供まで快諾したため、新聞社は返礼として北海を千歳の上空に飛ばすことを提案した[1][8][7]。当時、村民のほとんどは飛行機を見たことがなく、村は着陸してもらえないかと頼んだが、村内に飛行場がなかったためいったん断られた[7]。そこで村民大会を開いて着陸場を整備することになり、まさかりや鍬などの農具を用いて2日間で長さ200メートル以上、幅100メートルほどの着陸場を造成した[1][8][7]。
同年10月22日、酒井憲次郎操縦士ら3人が搭乗する2枚羽のプロペラ機「北海第1号機」が旋回しながらビラをまき、午後1時20分に村民が造った滑走路に着陸した[1][2][7]。着陸時には約1万人の観衆が集まり酒井操縦士に花束が渡された[2][7]。
しかし、この頃には北海はエンジンの不調が恒常化しており、翌1927年(昭和2年)頃には小樽新聞社の航空部は解散に至っている[9]。