北谷城
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(沖縄県) | |
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米軍基地キャンプ瑞慶覧にある北谷城
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| 別名 | 北谷グスク |
| 位置 | 北緯26度18分31.4秒 東経127度45分53.8秒 / 北緯26.308722度 東経127.764944度座標: 北緯26度18分31.4秒 東経127度45分53.8秒 / 北緯26.308722度 東経127.764944度 |
北谷城(ちゃたんじょう)あるいは 北谷グスク(ちゃたんグスク)は沖縄県北谷町にあるグスク。13世紀後半から16世紀前半にかけて中山の拠点になった。1945年の沖縄戦から米軍基地キャンプ瑞慶覧の敷地内にあったが、2013年の合意後、沖縄戦から75年目の2020年3月31日に日本に返還された。北側にはキャンプ桑江、南側にキャンプ瑞慶覧がある細長い区域に位置する。国の史跡に指定されている[1]。
グスク時代
北谷城は13世紀後半から16世紀前半にかけて中山の拠点として琉球王国成立後まで存続した。別名 「 大川グスク 」 または 「 池グスク 」 とも呼ばれている。規模が大きく、首里城跡、今帰仁城跡、糸数城跡、南山城跡に次ぐ大きさのグスクとみられており、有力な按司の城であったと思われるが、戦後75年間米軍基地の中にあったため、調査もほとんど進行しておらず詳しいことはわかっていない[2]。丘陵の幅は100~150mで、東西に延びる琉球石灰岩からなる丘陵を取り囲んで築かれ、東側から、一の郭、二の郭、三の郭、四の郭、となり、面積は15,000m2にわたる[3]。
古くは金満(かねまん)という按司の居城だったと伝えられ、グスク北側斜面に金満お墓と伝わる洞穴墓がある。金満按司は大川按司に、また大川按司は谷茶大主に滅ぼされたと伝わっている。久手堅親雲上作の演目「大川敵討」の舞台にもなっている[4]。
伝承によると、尚寧王時代、慶長14年 (1609年) 薩摩が進攻するに当り、雍肇豊佐敷筑登之興道 (佐敷興道) が琉球王府から派遣され、薩摩軍との激戦を繰り広げたといわれる[5]。興道は4月1日、首里城が陥落したとの報を受け、悲憤し自害したと伝えられる[5]。
近現代
日本軍の秘匿壕が城郭北側の斜面に構築されていた[6]
1945年4月1日、沖縄戦で北谷は米軍の上陸地点となる。北から南まで巨大な米軍基地がひしめく一帯となり、北谷グスクはキャンプ瑞慶覧内に接収された。
2013年4月5日、嘉手納以南の基地返還計画において「キャンプ瑞慶覧・施設技術部地区の一部」として2019年以降の返還が合意された。
2017年、返還が合意された一方で、北谷城の文化財調査は米軍により拒否され[7][8]、それにより北谷城跡の国指定に向けた調査が進まず、北谷町は、文化財保護、跡地利用計画等の推進、まちづくりに大きな影響を与えているとして抗議の決議文を決議した[9]。
2018年、米軍は北谷町に対し3月20日から31日までの11日間の立ち入り調査を許可した[10][11]。
2020年3月31日、北谷城の遺構は沖縄戦から75年目に返還された。11月20日、文化審議会は北谷城跡を国の史跡に指定するよう答申した[12]。







