北軽井沢大学村
From Wikipedia, the free encyclopedia
北軽井沢大学村(きたかるいざわだいがくむら)は、群馬県吾妻郡長野原町大字北軽井沢にある別荘分譲地。通称「大学村」「大学村別荘地」。元は「法政大学村」。
浅間山北麓、標高約1110mの平坦地に位置し、昭和初期から多くの学者や文化人が集い、知的交流の拠点として発展した。自然と調和することに重きを置き、歴史が深く、ステイタスの象徴ではない文化人のための場所として保護され、歴史と文化の香り漂う避暑地として知られる。冷涼な高原性気候(冷温帯湿潤気候〈Cfb型〉に近い)により夏季も快適で、コロナ禍以降は再び注目を集めている。[1]
大学村組合は、独自の水源地を有し、水供給と環境保全の協定を基盤にネットワーク化し、文化的景観の継承と地域の持続性を支えている。[2]
1895年(明治28年)北白川宮能久親王没後、273ヘクタールの牧草地が北白川宮家から草軽電鉄と亀沢牧場(現在の浅間牧場)の所有へと変わった。その後1920年に法政大学学長であった松室致が草津軽便鉄道株式会社から譲り受けた。[3]。そして、松室学長は大正時代末、ここに法政大学の教職員と学生を中心とした理想的な教育と共同生活の場「法政大学村」をつくろうと思い立ち、教職員への土地分譲の計画から生まれた別荘分譲地として、開拓が進んだ。教授達には坪1円で分譲を始めた。[4]。
旧館林藩主の秋元子爵が別荘を建てたのを始まりに、初期の村民には、安倍能成、谷川徹三、野上弥生子(豊一郎夫人)、田邊元、津田左右吉、小泉信三、岸田國士らが名を連ね、開村初期には、大学教授をはじめ、小説家、劇作家、哲学者、出版人など文化人が居住する村となる。[5]
昭和期の知識人山荘文化として、大正11年に東京大学の学者らが開村した北軽井沢一匡邑と大学村の交流に端を発する「北軽井沢学者山荘文化」が特筆される。戯曲家・小説家の岸田國士(岸田今日子・岸田衿子姉妹の父)、法政大学で哲学を講じた谷川徹三とその子谷川俊太郎の山荘を中心に、英文学者吉田健一、岩波書店創業者の岩波茂雄、作曲家寺島尚彦らの山荘が並び、居住者の間で積極的な北軽井沢インテリジェンス・ヴィレッジ文化交友が行われた。これらの人的交流は、昭和期における知識人サロン文化の成熟を体現し、居住者の創作活動や思想的営為に影響を与えたと評価できる。後年には大江健三郎も山荘を構え、夏季の滞在を通じて村民間の交友を継承した。[6]
この文化的系譜は現代にも受け継がれている。建築家篠原一男の設計(当時の設計担当は大学院生でありその後女性建築家の草分け的存在の長谷川逸子)による谷川山荘[7]は、遠山正道と文字美術作家の遠山由美に継承され、現代的な実業家・クリエーターの交流拠点として機能している。こうした展開は、昭和期の知識人山荘文化の系譜が形を変えつつ存続していることを示している。[8]
また、浅間山南麓の軽井沢が大手資本によるリゾート開発と商業化を遂げたのに対し、北軽井沢は喧騒や過度な商業主義から距離を置き、文学や文化を基盤とした独自の価値観を育んできた点において、きわめて対照的である。[9]
特徴
- 舗装道路ではなく砂利道のため、景観として自然調和が保たれている。同時に、極暑の昨今でも大学村内に入ると夏季最高気温が25度程度に保たれ、室温も20度程度と涼しく、避暑として環境保全協定の継承が有効に働いている。
- 自然をそのまま残す目的として、原則として1人1区画500坪、2区画まで所有できる建築協定や、建物を囲む柵やフェンスを持たないと言った自然と調和することに重きを置く、独自の山荘文化と環境を育んできた。初期の住民は大学関係者に限られていたが、現在は他の別荘地同様に自由に不動産売買及び所有権移転ができる。開村時から別荘を3世代継承している世帯もあり、昭和初期のかやぶき屋根や檜皮葺屋根の建物も残っている。[10]
- 標高が高く積雪があるため、薪ストーブがほとんどの家にデザインされ、秋冬には煙突から煙がたなびく森の風景は、情緒がある。薪ストーブの暮らしがあることが、大学村のひとつの文化ともいえる。
- 軽井沢の別荘地に比べ、急斜面や坂の立地ではなく浅間山山麓の平坦地のため、散策や建築に適している。また、軽井沢に比べて標高が高いため気温が低く、人気がある。IKKOも、軽井沢から別荘を移設した。
- 住居表示とは別に、大学村内では、〇〇条〇〇丁目と、東西の路 (条)と南北の路 (丁)を碁盤の目状に組み合わた住所を使用している。[11]
- 独自の水源地から水道がネットワーク化され、大学村組合に加入する条件で水道代は無料となるため、コロナ禍以降の移住希望者または二拠点居住者が多い。[12]
- 大学村の教育機関の施設としては、東京都にある中高一貫校の香蘭女学校、群馬大学が現存する。全盛期には、10ケ程度の教育機関参加の施設があった。保養施設を有する企業としては千葉銀行や宝島社が存在する。[13]
- 文化人の住まいが多く、運動会や演奏会、講演会やワークショップが開かれ、単なる別荘地というより、共同体としてのつながりが大切にされている。[14]
- 司法省技師であった建築家の蒲原重雄が、法政大学学長からの依頼で開村初期に山荘群を設計した。建畠大夢がオーナーの洋小屋組が特徴の南紀倶楽部(元紀州出身の美術家グループのアトリエである南紀美術倶楽部)は、現在は組合が所有者になり現存する。[15]
- 岩波書店オーナーの岩波茂雄は、大学村の自然や景観を大変気に入り、自身の別荘を構えただけでなく、文士達に広く声をかけ、野上弥生子、芥川比呂志 、岸田今日子、更には谷川俊太郎、大江健三郎も加わり、サロンやコミューン的な山荘文化を育み成熟していった点が、他の軽井沢のデイベロッパー分譲別荘地との特異点である。今でもここで創作活動をしている作家や芸術家、研究者が多いのが特徴だ。[16]。
- 1950年代~1960年代にかけて、北軽井沢の商店は大学村の住民を対象に配達サービスを行っていた。代表的な存在として「山のデパート」が知られるが、それ以外の商店も同様に注文を受け付け、複数店舗が共同で配達のローテーションを組むなど効率的な仕組みを導入していた。当時としては先進的な小売システムであったとされる。[17]。
また、一部の商店では大学村住民に対して「ツケ払い」(信用取引)が認められており、身元が確認できる顧客を対象にした信用販売の仕組みが確立されていた。これは後のクレジット取引や生協に通じる先駆的な事例と位置づけられる。こうした取り組みにより、商店間には緩やかな販売組合的協力関係が形成され、大学村と北軽井沢の商店との間には厚い信頼関係が築かれた。このデリバリーシステムは、大学村に滞在する住民の生活基盤を支えるとともに、北軽井沢の商業活動においても地域連携の一形態として機能した。[18]。[19]。
大学村から生まれた文学作品
- 谷川俊太郎「空を読み 雲を歌い」(北軽井沢浅間高原詩篇1949-2018)、二十億光年の孤独(=21歳のデビュー作)[20]
- 英文学者の野上豊一郎・弥生子夫妻は1928年以来、北軽井沢大学村の山荘で夏を過ごし、99歳まで読書と執筆中心の悠々自適の生活を楽しんだ。軽井沢を舞台にした作品に『迷路』、随筆集『鬼女山房記』がある。主な作品に『真知子』『迷路』『秀吉と利休』『森』など。山荘の離れ“鬼女山房”(書斎兼茶室)は1996年に大学村から軽井沢高原文庫前庭に移築された。[21]
- 劇作家 岸田國士は北軽井沢大学村にオランダの農家風の山荘を1931年に建て、以後夏を過ごした。浅間山麓の自然を愛し、山羊や緬羊を飼うロハスな文化を体現した。「チロルの秋」「ぶらんこ」などエスプリの利いた心理喜劇や、小説、評論や、北軽井沢・信州を舞台に『浅間山』(戯曲)、『泉』『村で一番の栗の木』を生みだした。[22]
- 岩波書店の会長だった小林勇の著書「山中独善」。1970年の夏に、独りで過ごした大学村の別荘での生活を、食物を主題として書かれた随筆。[23]
大学村の著名人
- 岩波茂雄 作家
- 野上豊一郎 作家
- 安倍能成 学習院大学教授
- 田辺元 作家
- 野上弥生子 作家
- 蒲原重雄 司法省技師 建築家
- 岸田国士 劇作家
- 谷川徹三 作家
- 御巫清勇 作家
- 小林勇 作家
- 芥川瑠璃子 作家
- 芥川比呂志 作家
- 芥川也寸志 作家
- 岸田衿子 詩人・童話作家
- 岸田今日子 俳優
- 谷川俊太郎 作家
- 大江健三郎 作家
- 大江 光 作曲家
- 佐野洋子 作家
- 芥川耿子 作家
- 長嶋有 作家
- 松室致 法政大学教授
- 米川正夫 ロシア文学者
- 中村稔 弁護士
- 田辺元 哲学学者 京都大学教授
- 津田左右吉 早稲田大学教授
- 村松康行 学習院大学理学部化学科教授
- 遠山正道 実業家 女子美術大学教授[24]
- 建畠大夢 彫刻家
- 小池朝雄 俳優
- 仲谷昇 俳優
- 北村和夫 俳優
- 山崎努 俳優
- 吉田健一 英文学者
- 森田草平 作家・翻訳家
- 寺島尚彦 作曲家
- 米川良夫 イタリア文学者・翻訳家・國學院大學名誉教授
- 見田盛夫 料理記者 グルマン編集長 エッセイスト 独断偏見田舎山人
- 齋藤秀雄 チェロ奏者、指揮者、音楽教育家 桐朋学園大学教授
- 建畠嘉門 建築家
- 武満徹 音楽家
- 谷川賢作 音楽家
旧制高等学校文化の世代継承と教養主義的知識人コミュニティの形成(創成〜発展〜成熟)
北軽井沢大学村の創成期は、戦前の旧制高等学校、とりわけ第一高等学校に代表される教養主義的文化を共有した知識人ネットワークを基盤として誕生した。法政大学関係者を中心に、旧制高校以来の人的関係を背景として学者・文化人が集住する場となった[25]。
こうした父世代の交友関係は子世代にも継承され、夏季の滞在生活を通じて世代を越えた交流が形成された。子弟同士は登山や議論、文化活動をともにし、親世代の教養主義的価値観を共有する共同体が維持されたほか、婚姻に至る例も見られた[25]。
二世世代の多くは、七年制高等学校(旧制東京高等学校、旧制武蔵高等学校など)に進学した。これらの学校は当時、学力的にも社会的にも選抜性の高い難関校であり、進学者は限られた層に集中していた。そのため、この進路選択は単なる教育制度上の選択ではなく、父世代の旧制高等学校的教養主義を基盤としつつ、高い学力水準と文化資本を兼ね備えた層の再生産を意味していたとされる。すなわち、北軽井沢大学村は、人的ネットワークの継承に加え、難関教育機関への進学を通じた選抜性の高い知識人層によって維持・強化されたコミュニティであった点が極めて特異であった。
このように、同地は単なる別荘地にとどまらず、旧制高校的教養主義的価値観と高度な教育達成を併せ持つ、凝集度の高い知識人コミュニティとして特徴づけられる。また、北軽井沢大学村には、旧制高校文化を体現した父世代と、それを継承しつつ七年制高等学校の教育制度のもとで再編成された二世世代が、大学村発展期には重層的に共存する構造が形成された。こうした世代的連続性と人的再生産は、コミュニティの文化的成熟を促進し、他に類例の少ないコミュニティ形成のあり方として評価されている。[25]。
発展期から成熟期を経て、現在は、新規居住者とならび、三世代・四世代にわたる継承も見られる[25]。
一般社団法人北軽井沢大学村組合

一般社団法人北軽井沢大学村組合(きたかるいさわだいがくむらくみあい、法人番号:5070005007475)は、群馬県吾妻郡長野原町大字北軽井沢1987番地786に所在する[26]。
組合事務所では不動産の仲介等は行っておらず、物件の購入は不動産会社や所有者に尋ね交渉し当事者間で自由に登記移転が可能となっている。登記移転終了後に、加入届を不動産会社を通じて大学村組合事務所に報告のうえ入会手続きを行い、組合員となる。
- 入村の際は次の3点について順守
- 1.大学村「憲章」及び「環境保全協定」を遵守すること
- 2.大学村の「定款」「内規」「申合せ事項」を遵守すること
- 3.大学村入会金、年会費を支払うこと
- 大学村「憲章」[27]
- 1.水道法に基づいた飲料水の供給と併せて住みよい環境の保全を図ること。
- 2.集会所、付属運動場を活用とした文化・スポーツの活動を通して、児童・青少年の育成・コミュニケーションを図ること。
大学人による大学人のための別荘地が出発点で村名の由来でもあるが、1世紀を迎える昨今は大学関係者は1/4程度となり、今では多様な分野の経歴の組合員が森の生活を過ごす。