岩波茂雄
From Wikipedia, the free encyclopedia
長野県諏訪郡中洲村(現在の諏訪市中洲)の農家に生まれる[2]。父義質は村の助役をしていた。
尋常小学校、高等小学校をへて、1895年(明治28年)に旧制諏訪実科中学校(現・諏訪清陵高)に進むも、在学中に父が病死し、戸主となる。母を助け農業をしていたが1899年に上京し、杉浦重剛を慕い、日本中学(現・明治大学付属世田谷中学校・高等学校)に入学。母が学資を仕送りしてくれた。ある時母親が上京すると茂雄は東京見物をさせようと思うも母は用事が済むとさっさと帰郷してしまった。息子を勉強させたいばかりに働いたのだという。翌年に卒業。
1901年(明治34年)、第一高等学校に入学する。ボート部で活躍するが[3]、2年になる頃から人生問題に悩むようになる。この頃には内村鑑三の影響を受けており、また、東京本郷で求道学舎を主宰していた真宗大谷派僧侶の近角常観のもとを訪れ、近角から著書『信仰の餘瀝』を渡される。1903年5月、藤村操(1学年下)が「巌頭之感」を遺して自殺したことに大きな衝撃を受ける[4]。試験を放棄したため落第し、夏休みの約40日間、茂雄は哲学書等を携えて野尻湖の弁天島に1人で篭もることがあった。この間に自殺を心配した母親が島を訪れたこともあり、学校を続けることを決意する。翌1904年も試験放棄のため落第し、高校を中退する[5]。再起して1905年、東京帝国大学哲学科選科に入学[6]。1906年には結婚。
大学選科修了後、神田高等女学校(現・神田女学園)に奉職するも教師としての自信を喪失し退職。1913年(大正2年)、神田区南神保町に古本業岩波書店を開く。破格の正札販売を実施、古書店から出発し、夏目漱石の知遇を得て1914年には「こゝろ」を出版。これは自費出版だったが、岩波書店の処女出版と位置付けられる。漱石没後は安倍能成らと「漱石全集」を刊行した。
『思想』(1921年)『科学』(1931年)『文化』(1934年)などの雑誌や、1927年(昭和2年)には「岩波文庫」を創刊。日中戦争について「日本はしなくてもいい戦争をしている」と軍部に対して批判的な立場から活動を展開していた。これによって軍部の圧力をかけられるようになる。
1940年には学徒及び篤学の学者、研究者を援助する目的で財団法人「風樹会」を設立。同年、津田左右吉の著作『古事記及日本書紀の研究』他4点が発禁処分となった事件では発行元として、 津田と共に出版法違反で東京地方検事局の取り調べを受け、3月8日に起訴、不拘束のまま予審に回附された[7]。 1942年に有罪判決、上告中の1944年免訴となる。また美濃部達吉の天皇機関説を支持する投稿を朝日新聞に行ったが、同紙が不掲載としたため、朝日は意気地なしだ、と批判した。
1945年3月に貴族院多額納税者議員に互選、同年4月4日に任命されるが[8]、それから6ヶ月後に脳出血で倒れる。翌46年に雑誌『世界』が創刊され、2月に文化勲章も受けるが、同年に静岡県熱海市[9]で死去。64歳。戒名は文猷院剛堂宗茂居士。墓所は鎌倉・東慶寺。

故郷にある諏訪市立信州風樹文庫に岩波書店が出版する図書を、1947年出版分以降、すべて所蔵。岩波昭彦筆日本画「岩波茂雄先生像」も収蔵。

略歴
作品
参考文献
- 安倍能成『岩波茂雄傳』 岩波書店、1957年[18]、新装復刊1996年ほか、改訂版2012年
- 『岩波茂雄伝』 岩波文庫(解説十重田裕一)、2023年8月
- 岡茂雄「岩波茂雄さんとの出会い」 - 『本屋風情』 平凡社、1974年、224~228頁。中公文庫、※角川ソフィア文庫で再刊。
- 司馬遼太郎『街道をゆく36 本所深川散歩 神田界隈』 朝日新聞社、1992年。※朝日文庫ほかで再刊
- 「哲学書肆」、「三人の茂雄」より(他は岡茂雄、反町茂雄)
- 東京刑事地方裁判所編『津田左右吉 岩波茂雄 出版法違反予審終結決定書』1941年
- 藤本尚則「岩波(茂雄)少年の手紙」-『国師杉浦重剛先生』敬愛会、1954年。182頁
- 魚住昭『出版社と権力 講談社と野間家の一一〇年』(初版)講談社※、2021年2月。ISBN 9784065129388。 NCID BC05509615。全国書誌番号:23496349。
- 岩波書店編集部編『岩波茂雄への手紙』岩波書店、2003年
- ※は電子書籍版も刊
