1899年(明治32年)4月、藤村は木村熊二の主催する小諸義塾の教師として長野県小諸町へ赴任した。この間に、ラスキンに影響され、美術に用いられる写生を散文に応用しようと試みた。こうして小諸で過ごした1年間を描いたのが「千曲川のスケッチ」で、藤村が詩から散文へと移っていく流れを考察する上で重要な作品である。
1911年(明治44年)、これを『中学世界』に発表するにあたり、藤村自らが読者のために選び、吉村樹(藤村が年少時に寄宿した吉村忠道の子)へ呼びかけるという形で連載した。そして「はしがき」をつけて刊行されたものが、現在読むことのできる『千曲川のスケッチ』である。