千歳楼 (養老町)
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| 千歳楼 せんざいろう | |
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| ホテル概要 | |
| 所有者 | 株式会社養老[1] |
| 開業 | 1764年 |
| 最寄駅 | 養老鉄道養老線養老駅 |
| 所在地 |
〒503-1254 岐阜県養老郡養老町養老公園1079 |
| 位置 | 北緯35度17分03.9秒 東経136度32分28.2秒 / 北緯35.284417度 東経136.541167度座標: 北緯35度17分03.9秒 東経136度32分28.2秒 / 北緯35.284417度 東経136.541167度 |
| 公式サイト | 公式サイト |
千歳楼(せんざいろう)は、岐阜県養老郡養老町養老公園1079にある旅館。
創業は江戸時代中期の宝暦14年(1764年)であり、養老公園にある旅館の中で最も古い歴史を有するほか[2]、岐阜県でも屈指の老舗旅館とされる[3]。1880年(明治13年)に開園した養老公園の北端部の山際にあり、2階の大広間からは濃尾平野が望める[1]。本館・流芳閣・栖鳳閣の3棟が登録有形文化財に登録されている。
千歳楼の開業

養老の滝は古くから風向明媚な場所として知られ、行幸した元正天皇(715年-724年在位)は「醴泉は、美泉なり。もって老を養うべし。蓋し水の精なればなり。天下に大赦して、霊亀三年を改め養老元年と成すべし」との詔を出して養老に改元した。
享保元年(1716年)頃に高田元町(現在の養老郡養老町高田)に生まれた初代岡本喜十郎は[4]、養老の開発を志して養老の滝周辺の土地を買い上げ、宝暦14年(1764年)に旅館の千歳楼を創業した[4]。名称は元正天皇の養老行幸から1000年を記念したものである[5][6]。千歳楼周辺は養老の滝こそあったが山間の僻地であり、周囲の人々には無謀な計画だとして反対されている[4]。
明和8年(1771年)、初代岡本喜十郎は養老の滝から水を引き、薬湯を造って湯治客をもてなそうとした[7][8]。しかし、薬湯の損失を補うための別の事業にも失敗するなどして、天明4年(1784年)に失意のうちに亡くなった[4]。初代岡本喜十郎の死後、2代目岡本喜十郎は薬湯を千歳楼の場所に移し、経営の合理化を図ったことで売り上げが上向いた[4]。
1873年(明治6年)、4代目岡本喜十郎の代で経営危機に陥ったことで、経営を株式組織に改めて4代目岡本喜十郎は引退し、日比四郎三郎が千歳楼の経営者となった[9]。
養老公園の開園
養老公園千歳楼
公園内最も優勝の地位を占め東南遙に濃尾の平野を眺望す明治十三年養老公園開設の際元多芸郡の有志者之を建築し偕楽社と称せしを其の後千歳楼と改め養老郡の営造物として管理す — 『岐阜県写真帖』1909年[10]
千歳楼
郡有の建物にして眺望最好の地を占め濃尾の平野眼下にあり遠くは濃勢尾三の、巒峰爽を競ひ木曽長良揖斐の三川沃野萬項の間に隠見し近くは下池の勝景大垣城の雄姿目睫指呼の間にあり、壮観言語に絶す此楼は郡有の建物なれば管理者許可の手続を経れば何人と雖も使用することを得べし — 『美濃名勝長良川の鵜飼と養老の滝』1915年[11]

小崎利準岐阜県令が松方正義大蔵卿の命を受けて、千歳楼の創業から約100年後の1880年(明治13年)には養老公園が開園[5]。これに合わせて老朽化していた千歳楼の復興も計画され、75人から約3000円の寄付金が集まった[9]。養老公園の開園と同年には、養老の滝から500メートルの景観の良い場所に現在の本館が建てられ[5][6]、地元の名士らが偕楽社を設立して経営を引き継いだ[7]。なお、養老公園には「岡本喜十郎翁顕彰碑」が建立されている[4]。
1923年(大正12年)には岐阜県に移管され、岐阜県は大垣市の大垣公園で料亭の吉岡楼を営む吉岡松太郎に修繕と経営を依頼した。吉岡松太郎は本館の修繕を行うとともに[12][9]、大正時代には本館に隣接して流芳閣を、昭和初期には流芳閣から廊下を介した場所に栖鳳閣を建設した[9]。養老鉄道養老線養老駅がにぎわっていた頃には、待合室の隣に「千歳」という店を出していたこともあった[3]。
近年の動向
2014年(平成26年)10月7日には本館・流芳閣・栖鳳閣の3棟が登録有形文化財に登録された。令和に入るとクラウドファンディングで集めた資金などを用いて薬湯の復活を試み[6]、2021年(令和3年)4月14日には大橋孝養老町長らも参加して開湯式を行った[8]。薬湯には伊吹山の山麓で栽培されている薬草を用いている[8]。同年12月1日には厨房の改修などのために休業に入り、2022年(令和4年)3月には客室を5部屋から7部屋に増やして営業再開した[6]。

建築
| 千歳楼本館 | |
|---|---|
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| 情報 | |
| 用途 | 旅館 |
| 構造形式 | 木造、瓦葺及び鉄板葺[1] |
| 建築面積 | 409[1] m² |
| 階数 | 2階建[1] |
| 竣工 | 1880年(明治13年)[1] |
| 所在地 |
〒503-1254 岐阜県養老郡養老町養老公園1079 |
| 文化財 | 登録有形文化財 |
| 指定・登録等日 | 2014年10月7日[1] |
南側から本館、流芳閣(りゅうほうかく)、栖鳳閣(せいほうかく)の3棟があり、さらに敷地内には茶室がある。木造2階建の本館は1880年(明治13年)の建築であり、1961年(昭和36年)頃に改修された[1]。木造平屋建(一部3階建)の流芳閣は大正期に建築され[13]、木造平屋建の栖鳳閣は昭和前期に建築された[14]。
本館
- 大広間
- 1階和室
流芳閣
- 楓の間
- 8畳の和室である[15]。
- 竹の間
- 桜の間
栖鳳閣
- 袖の間
- 10畳の和室であり[15]、「栖鳳の間」ともいわれる[16][17]。5代目主人の吉岡松太郎は日本画家の竹内栖鳳と親交があり[7]、栖鳳が千歳楼に長期滞在した際に栖鳳の手によって袖の間が設計された[15]。栖鳳がかかわった建築としては京都・嵐山の霞中庵があるが、千歳楼の栖鳳閣は貴重な作品とされる[18]。折上げ天井には栖鳳が筆を取った絹本絵画がある[15]。栖鳳による「翠嵐香」の書幅がある[15]。紀行作家であり一級建築士の稲葉なおとは、栖鳳による欄間の組子がピート・モンドリアンの絵画のようであるとし、「日本画の大家の作品というよりも、抽象画家の作風を思わせた」と書いている[18]。天井高は10尺(約3.0メートル)であり[15]、洋館なみに高いとされる[16]。
旅館施設
部屋
- 本館
- 「ふじ」の間
- 「月」の間
- 大広間
- ロビー
- 和室
- 浴室
- 流芳閣
- 「桜」の間
- 「竹」の間
- 「楓」の間
- 栖鳳閣
- 「袖」の間
- 「末」の間
- 「たまき」の間
- 「みどり」の間
- 別棟
- 「もみじ」の間
- 「萩」の間
- 茶室
- 大広間
- 「楓」の間
- 「楓」の間
- 部屋食(朝食)の一例
- 浴室
- ロビー
- 茶室
