千賀重親
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| 時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
|---|---|
| 生誕 | 天文11年(1542年) |
| 死没 | 元和3年7月6日(1617年8月7日)[1] |
| 別名 | 与八郎、孫兵衛 |
| 戒名 | 海安浄源 |
| 墓所 | 正衆寺(愛知県知多郡南知多町豊浜) |
| 主君 | 松平元康→松平忠吉→徳川義直 |
| 氏族 | 佐治氏→千賀氏 |
| 父母 | 父:佐治為貞、養父:千賀為親 |
| 妻 | 松平伊忠の娘・おあか |
| 子 | 養子:千賀信親(林秀貞の子) |
千賀 重親(せんが しげちか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。知多半島を根拠とする師崎水軍。
佐治為貞の子として誕生するが、佐治家重臣千賀為親の養子になり、佐治家の陣代を務めた。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦い前に松平元康に仕えた。永禄5年(1562年)幡豆崎(師崎)の船奉行に任じられ、海上警備に当たった[1]。天正18年(1590年)、豊臣秀吉により家康が関東に転封されるとそれに同行、小浜景隆、向井正綱、間宮信高と共に徳川御船手四人衆に任じられ三崎に配備されて1000石を得た。
慶長5年(1600年)の会津征伐にも従軍し、九鬼嘉隆が尾張国知多郡に侵攻した際には師崎に渡り、九鬼を退却させた。この功績により、関ヶ原の戦いの後に旧領の師崎を回復、1500石を賜った[1]。江戸幕府開幕後は師崎維持のため、尾張を所領とした松平忠吉・徳川義直に仕えて船奉行に任じられ、引き続き師崎を領した。また知多半島の捕鯨を指導したとも伝わる。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では家康に従い、大坂に従軍した。元和3年(1617年)7月6日、76歳で死去[1]。