ヤン・ファン・リーベックが、1652年4月6日にテーブル湾 へ上陸する様子を描いた絵画
南アフリカにおける白人入植の歴史は、1652年 にオランダ東インド会社 がヤン・ファン・リーベック の監督下で喜望峰 を開拓した事に端を発する[ 7] 。
その事から、オランダ出身の役人や入植者が大部分を占めていたにもかかわらず、本国での宗教的迫害 から逃れたフランス のユグノー や、アジアでの役務を終えたドイツ出身の兵士や船員なども定住する様になった[ 8] 。
その後、オランダ領ケープ植民地 (英語版 ) が正式に発足した事に伴い、西ヨーロッパ出身の白人男性による大規模な入植が始まった当初は、同地において白人女性は殆どいなかった。それを補うべく、本国から本妻を呼び寄せたり、孤児 の少女を集団で送り込んだほか、現在のインドネシア にあたる地域から連行されてきた、後にケープマレー と呼称される奴隷 の女性達も到着するようになった。しかし、当然ながらそれだけでは問題の解決には至らず、多くの白人男性は、使役するコイコイ人や奴隷の女性と結婚 したほか、性行為を強要 し続けた。また、オランダ東インド会社もケープタウンに女性奴隷を収容した慰安所 を設け、女性達は船員達の性奴隷 として酷使された[ 9] 。
こうした異人種間の結婚や性暴力 が多発した結果、数多くの混血児が生まれる事となった。その影響もあって、2019年2月に、無作為に抽出した77名のアフリカーナーを対象に行われた遺伝子調査では、その全員が、非ヨーロッパ人の血統を保持していており、その平均的な割合は約4.8%、単純計算で10代前の祖先(1,024人)のうち50人前後は非ヨーロッパ人となる、という結果が発表された。由来のおおよその割合としては、南アジア系は1.7%、東南アジア系は0.9%、カポイドは1.3%、コンゴイドは0.8%であり、アメリカ先住民 の血を引いている事例も確認されている。また、調査対象者における非ヨーロッパ人の血統の割合は、5名が10%以上、21名が5~10%、46名が1~5%、5名が1%未満だった[ 10] 。
ケープ植民地は、その後150年近くに亘ってオランダの統治下に置かれたが、1806年にイギリスへ割譲される事となった[ 11] 。当時、南アフリカには約26,000人のヨーロッパ系移民 (英語版 ) が居住しており、上述の通りその殆どはオランダ出身だった[ 11] 。しかし、1818年頃から数千人のイギリス人移民がケープ植民地 に到着し、辺境地の開拓をはじめとする労働への従事と同地への定住が始まった[ 11] 。1830年代のグレート・トレック では、ケープ植民地におけるアフリカーナーの約5分の1が東に移動し、内陸部にボーア諸共和国 (英語版 ) を建国した[ 12] 。それでも、ケープ植民地におけるヨーロッパからの移民の数は増加し続け、1865年までに181,592人に達した[ 13] 。
1880年から1910年の間にかけて、リトアニア出身者を中心としたユダヤ人や、レバノン とシリア など西アジアからの移民が流入する様になった。当初、西アジア系移民は非白人たる「アジア人 」に分類され、土地を購入する権利を認められなかった。その事から、西アジア系移民の指導者は、自身達と同じキリスト教とユダヤ教の起源である地の出身のセム族 であるユダヤ系住民には、土地差別諸法が適用されていない事を指摘すると同時に、西アジア系住民は「白人」であるという旨を、同国の裁判所に提訴した。最終的な司法判断では、同諸法の対象は先住民や黄色人種をはじめとする有色人種に限るとされ、西アジア系住民にも、ユダヤ系住民と同等に、土地購入の権利と「白人」としての地位が認められる事となった[ 14] [ 15] 。
第二次ボーア戦争 におけるアフリカーナーのゲリラ
1911年に南アフリカで初めて実施された国勢調査 では、白人の人口は1,276,242人に及ぶという結果が示された。白人の推定人口は、1936年には2,003,857人、1946年には2,372,690人に達した[ 14] 。
また、南アフリカ政府は20世紀半ばから後半にかけて、ドイツ・イタリア ・オランダ・ギリシャ・ローデシア ・ポルトガルの海外領土 から、数万人のヨーロッパ系移民を受け入れを実施し、ピーク時の1990年における白人の人口は5,044,000人にまで達した[ 16] 。
アパルトヘイト撤廃後の1994年に施行された雇用均等法では、黒人や印僑 、華僑、カラード、障碍者の雇用が促進される事となった。
黒人経済力強化政策は、黒人の株式構成比率を一定以上とする事と、彼等へ与える所有権・雇用・訓練・社会的責任の取り組みを、入札の際の重要な基準とみなし、民間企業にも同法を遵守する事を義務と定めた為、黒人には大きな権限が与えられる事となった[ 17] 。
アパルトヘイト撤廃後においては、白人の貧困層 が急増している事が指摘されている。2006年にイギリスのガーディアン 紙は、35万人以上のアフリカーナーが貧困層に分類され、かつその内の15万人弱が、日雇い労働者として、その日暮らしを余儀なくされていると報じた[ 18] [ 19] 。
加えて、初の全人種参加選挙 (英語版 ) が実施された1994年から2005年頃にかけて、治安の悪化や雇用機会の喪失などを理由に、100万人以上の南アフリカの白人が海外へ流出し、特にイギリス・オーストラリア ・アメリカ ・カナダ ・ニュージーランド といった英語圏では、大規模なコミュニティを形成している[ 20] [ 21] 。しかし、世界金融危機 により白人の国外への流出は鈍化し、2014年5月の時点で、約34万人の南アフリカ国籍の白人が、本国へ帰国したと推定されている[ 22] 。
今日における南アフリカの白人社会は、アフリカ大陸における脱植民地化 の最中に、他のアフリカ諸国から植民地主義者が大量に流出したこともあり、同大陸におけるヨーロッパ及び一部西アジアにルーツを持つ者達の、事実上唯一のコミュニティであると見なされており、特にアングロアフリカンは、同国の政財界において、現在でも主要な地位を占めている。
2025年、ドナルド・トランプは、南アフリカの白人を難民と認定して、無期限の受け入れ停止から除外した[ 23] 。