同蒲線
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歴史
同蒲線は、1912年に成立した中華民国の山西軍政府大都督に任命されていた閻錫山の政権下で建設が開始された[1]。閻は当初、中華民国中央政府に鉄道建設のための資金援助を求めたが、1928年に拒絶されたため、ドイツ人の測量士らを雇って独自の建設計画を推進した[2]。
1930年の中原大戦により閻が権力を失うと建設計画は中断したものの、1932年に権力を回復させると、閻は兵士らを建設に駆り出し、ドイツ人技術者が提案した762mm軌間を採用した上で建設を再開させた。1933年5月には北同蒲線と南同蒲線双方の建設が開始され、1935年8月には北同蒲線の原平-太原間が開通、同年12月には南同蒲線の全線が開通した[3]。北同蒲線は1937年8月までに大同駅まで残り8kmの地点まで開通したが、日中戦争に伴う大同の陥落により、建設は再び中断された。一帯を掌握した日本軍は1939年に住民らを強制労働に駆り出し、残りの区間を開通させたが、設備は荒廃しており、25-35km/hの速度しか出すことができなかった[2]。
第二次世界大戦が終結すると、閻は一時権力を回復させるも、国共内戦により北同蒲線の設備は破壊され、閻は中華民国政府と共に台湾へ逃れた。その後、中華人民共和国成立後の1949年11月より復旧作業及び改軌が進められ、1951年8月には標準軌の路線として全区間が復旧した[2]。