南山名村
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『尾張徇行記』によると、当時の扶桑の村としては人口も比較的多く、石高は下野村に次いで多い村であった[2]。藩の農業奨励もあって開発が進み、人々は農耕に励みながら副業に養蚕をしていた。『覚書』には「当村ニ桶師有之、御用之節ハ御役相勤ル」とあり、桶作りも古くから行われていた。(このことは北山名村の項にも記されている。)また、仔馬を育て名古屋方面を売り出していたことも北山名村と同じである。馬場という地名が残っているが、馬を馴らした跡と言われ、馬市が開かれたところ、ともいわれている。
このほか、『徇行記』によると、般若渠の水はこの集落の西辺りの低地で逆流していたらしく、「逆巻」の地名が残っている。なお、『徇行記』には他の村の寺社がほとんどその境内の広さの記述であるのに、顕宝寺については多くのスペースで記され、悟渓宗頓についても、その生誕の挿話等が記されている。