南部地域 (ブラジル)
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南部地域 Região Sul | |
|---|---|
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地域 | |
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南部地域の位置 | |
| 座標:南緯25度26分 西経49度16分 / 南緯25.433度 西経49.267度座標: 南緯25度26分 西経49度16分 / 南緯25.433度 西経49.267度 | |
| 国 |
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| 州 |
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| 面積 | |
| • 合計 | 576,409.6 km2 |
| 面積順位 | 5位 |
| 人口 | |
| • 合計 | 29,439,773人 |
| • 順位 | 3位 |
| • 密度 | 51人/km2 |
| • 密度順位 | 2位 |
| GDP | |
| • 年 | 2008年[1] |
| • 合計 | 6721億レアル(2位) |
| • 1人当たり | 2万4382レアル(2位) |
| HDI | |
| • 年 | 2010年 |
| • 等級 | 0.756 – 高 (1位) |
| • 平均寿命 | 77.2歳(1位) |
| • 乳児死亡率 | 7.7人/1000人(5位) |
| • 識字率 | 98.3% (1位) |
| 等時帯 | UTC-3 (ブラジル時間) |
| • 夏時間 | UTC-2 (ブラジル夏時間) |
南部地域(ポルトガル語: Região Sul do Brasil)は、ブラジル南部の地域。 2016年の人口は2943万9773人[2]で、全国の14.3%を占め、5地域中3位。 サンタ・カタリーナ州、パラナ州、南大河州の3州から成る。 最大都市はクリチバ。
主要都市
歴史
先コロンブス期
ポルトガルによる侵略

最初にポルトガルとスペインのイエズス会が訪れ、先住民をカトリックに改宗した。 サン・パウロ出身のバンデイランテス(奥地探検隊)も同時期に入植した[3] 数十年に渡ってポルトガル人とスペイン人は衝突を繰り返した。 ポルトガル王はアゾレス諸島の入植者にブラジル南部に入植するよう促し、1748年~1756年の間に6000人が移住した。 18世紀後半にはポルトガル人はサンタ・カタリーナ州、南大河州で過半数を占めた[4]。
ドイツ人の入植


1824年、最初のドイツ人入植者が到着し、サン・レオポルドを建設した。 独立直後のブラジル政府は入植者を歓迎し、ドイツ人の多くが農民となった。 以降の40年間で、2万7256人のドイツ人が南大河州に移住した[5]
1904年までに推定5万人のドイツ人が入植した。
ブラジル政府はサンタ・カタリーナ州にはドイツ人を歓迎しなかったため、ハンブルク植民協会等が私的に移住した。 これらの協会は田舎に集落を造る一方、ブルメナウやジョインヴィレのような大都市の発展にも貢献した。
パラナ州には内戦時代に多くのドイツ人が移住した。 そのほとんどが南隣のサンタ・カタリーナ州出身や、ロシアに住むヴォルガ・ドイツ人だった[6]。
ラガマフィン戦争
1835年、南大河州とサンタ・カタリーナ州で共和党員が蜂起し、ラガマフィン戦争が始まった。 指導者はベント・ゴンサルベス・ダ・シルバとアントニオ・デ・サウザ・ネトだった。 南大河州の主要産品のチャーキー(塩漬け牛肉の干物)が、ブラジルの市場に自由に輸入されるウルグアイやアルゼンチンのそれと厳しい競争に曝されたのが原因だった。
1839年、イタリアのジュゼッペ・ガリバルディが共和軍への援助を開始した。
1845年、共和軍は帝国軍に降伏した。
イタリア人の入植

1875年、イタリアからの入植が始まった。 北部のヴェネト州を中心に、トレント自治県やロンバルディア州出身の小作人が土地を求めて移住するのがほとんどだった。 彼らの多くはセラ・ガウチャで葡萄を育てた。
1898年時点で、南大河州に30万人、サンタ・カタリーナ州に5万人、パラナ州に3万人のイタリア系住民がいた。
人種構成
| 肌の色/人種(2014) | |
|---|---|
| 白色人種(Branca) | 75.98% |
| 褐色人種(Parda) | 18.93% |
| アフリカ系(Preta) | 4.25% |
| アジア系(Amarela) | 0.57% |
| 先住民(Indígena) | 0.26% |
| 不明 | 0% |