原忠順

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死没 (1894-10-28) 1894年10月28日(60歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 昌平黌
はら ただゆき
原 忠順
原忠順
生誕 (1834-09-23) 1834年9月23日
日本の旗 日本肥前鹿島藩
死没 (1894-10-28) 1894年10月28日(60歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 昌平黌
職業 鹿島藩大参事内務省補、沖縄県少書記官、同大書記官、貴族院多額納税者議員
時代 明治時代
代表作 『米政撮要』
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原 忠順(はら ただゆき、1834年9月23日天保5年8月21日[1][2]) - 1894年明治27年)10月28日[1][3][2])は、幕末から明治時代の政治家武士貴族院多額納税者議員。通称は弥太右衛門[1]

肥前鹿島藩士[1]。藩命で江戸昌平黌に学ぶ[1][2]。藩主鍋島直彬の側近を務め藩論を尊王に纏めた[1]。鹿島藩大参事を経て、東京府に出仕する[3]1872年(明治5年)には直彬と共にアメリカに留学し『米政撮要』を著した[1][2]1874年(明治7年)内務省補となり、1879年(明治12年)直彬が初代沖縄県令に就任した際に沖縄県少書記官、同大書記官を歴任し[2][3]1881年(明治14年)9月に辞任するまでの2年半、県令と共に県政運営にあたった[4]

1890年(明治23年)佐賀県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日[5]から務めたが、在任中に死去した[3]

その他

原忠順翁頌徳碑
原忠順屋敷の棟門
  • 鹿島市の旭ヶ岡公園には、原を顕彰する石碑「原忠順翁頌徳碑」が建立されている[6]
  • 鹿島城(鹿島藩陣屋)域内には、原忠順の居宅だった茅葺きの屋敷が保存されている。その門は「武家屋敷棟門」として鹿島市の重要文化財(指定文化財)に指定されている[7]
  • 没後の残された資料は子孫に分割譲与され、複数の機関に分散して収蔵されているが、日記や書簡類、辞令書、典籍、写真等から構成されている資料群(291点)については、琉球大学附属図書館が1988年(昭和63年)に購入し、原忠順文庫として所蔵しており[4]、同文庫のうち164点をデジタル化・公開している[8]

親族

脚注

参考文献

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