琉球大学
沖縄県中頭郡西原町にある国立大学
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建学の理念

- 「自由と平等・寛容と平和」
- 琉球大学は、沖縄県が沖縄戦を経てアメリカ合衆国の施政権下にあった1950年に創設され、翌1951年、第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンの誕生日にあたる2月12日に開学記念式典を挙行した。リンカーンにあやかり、琉球大学は、第二次世界大戦後の平和な社会建設の礎として「自由と平等・寛容と平和」の理想を掲げて、建学の理念とした[1]。後述の「#沿革」も参照。
沿革
前史
戦前の沖縄県における旧制高等教育機関(旧制大学や旧制高等学校・旧制専門学校など)の設置運動は、ソテツ地獄直後の大正末期から始まり、高等水産学校、高等工業学校、首里設置の高等学校などの候補が挙がり、県議会でも幾たびも決議され、国への陳情も行われたが、実現には至らなかった。そのため、太平洋戦争下の1943年(昭和18)と1944年(昭和19)に、師範教育令の改正でそれぞれ高等教育機関へ移行した、教員養成機関の沖縄師範学校と沖縄青年師範学校の2校のみが沖縄県の高等教育機関であったが、1945年(昭和20)には両校とも沖縄戦に巻き込まれて破壊、廃止された[2]。
開学の経緯
アメリカ合衆国による沖縄統治が開始した直後の1946年(昭和21)、米国軍政府(後の米国民政府)は具志川村(現うるま市)に小学校等の教員養成を目的とした沖縄文教学校を開学した。また、外国語教育を施す沖縄外国語学校も開校した。1947年(昭和22)には本土と同じく6・3制義務教育を基本とする学制改革が実施され、また同年に大学設置要求が起きると、米国軍政府教育部は沖縄民政府に対して、1948年(昭和23)9月にジュニアカレッジの設立準備を指示したが、米国琉球軍政本部教育部長アーサー・E・ミードを中心に軍政府の大学設置案が練り直され、4年制の総合大学の案に修正された[3]。そして1950年(昭和25)5月22日、沖縄最初の大学として琉球大学が開学した[4]。
大学設置におけるアメリカ側の当初の政策目的は、1)共産主義の浸透を防ぎ、自由主義・民主主義などの米国的価値観を広めて親米感情を育成すること、2)サンフランシスコ講和条約後も統治を維持するため、琉球文化の独自性を強調して「沖縄は日本ではない」という意識を醸成し、日本への同化や本土復帰志向、軍国主義の再興を抑制すること、3)円滑な統治のため、経済・社会の近代化を進め、米国統治を支える沖縄人の官僚・専門家・教育者を育成すること、であったとされる[5]。
以上のように、本土の新制国立大学の多くが旧制高等教育機関を前身とするのと異なり、琉球大学は沖縄を占領統治したアメリカ合衆国の意向と沖縄側からの設置運動により設立された、特殊な経緯を有する大学である。
大学の敷地選定
敷地選定には沖縄側関係者の主体的な関与があり、沖縄民政府文教部長であった山城篤男は、大学を琉球の政治・文化の中心であった首里城跡に置くことが象徴的意義を持つと考え、米国琉球軍政本部教育部長アーサー・E・ミードや連合軍最高司令部琉球局長ジョン・H・ウェッカリング准将らを同地に案内し、最終的に「文化的事業に最もふさわしい場所」として決定された [6][7][8]。
大学の名称
開学に向けて、沖縄民政府指導層やハワイの沖縄救済更生会は「沖縄大学」という名称を前提に動いていたが、軍政府側は地域への奉仕を目的とするアメリカ合衆国のランドグラント大学の理念の基に、奄美大島を含む琉球諸島全体を対象として設立であるから「琉球大学」という名前が相応しいと主張し、1951年(昭和26)1月10日の琉球大学に関する基本法(米国民政府布令第30号)[9]により「琉球大学(University of the Ryukyus)」の名称が確定した。1961年(昭和36)1月27日開催の『開学十周年記念誌』座談会において、大学の英語名称について「University of the Ryukyusとなるのは琉球列島を意味しています。大島も含めたのです」と開学当時事務局長であった翁長俊郎は述べている。また、軍政府側が「琉球」という言葉にこだわった背景の一つには、日本と沖縄を切り離した状態に置こうとする政治的・軍事的背景があったとされる[10]。
アメリカ統治下の琉球大学
開学当初の琉球大学は、米国民政府の管理下に置かれ、いわゆる「布令時代」と呼ばれる統治形態のもとで運営された。1951年(昭和26)には「琉球大学に関する基本法」(米国民政府令第30号)[9]制定により大学の法人組織や管理体制が整備され、1952年(昭和27)の琉球教育法(布令第66号)制定により、琉球大学は同法に基づく教育機関として位置付けられた。 この時期の琉球大学は、地域社会の復興に直結する実学的教育を重視し、農業・工業・教員養成分野を中心に学部・学科の再編を重ねた。また、ミシガン州立大学から教授団の派遣(ミシガン・ミッション)を受けるなど、アメリカのランドグラント大学をモデルとした教育・研究体制が導入され、沖縄の実情に即した人材育成が図られ、沖縄各地で学外普及事業が実施された[7][11][12]。
1965年(昭和40)8月には、琉球政府立法院において「琉球大学設置法」および「琉球大学管理法」が制定され、翌1966年(昭和41)7月1日、琉球大学は米国民政府の管理を離れ、琉球政府立大学へと移行した。これにより、大学の管理機関として琉球大学委員会が設置され、自治運営体制の整備が進められた[13] 。
沖縄の本土復帰と国立大学への移行
1969年(昭和44)頃から琉球大学における学生運動・大学紛争が活発になっていく中で[14]、1970年(昭和45)11月20日には、沖縄の本土復帰を見据え、琉球大学の取り扱いについて閣議決定が行われ、「琉球大学(短期大学部を含む。)は、その教育組織等について必要な整備を図った上で、復帰の際に国に移管し、国立大学とする」ことが決定された[15]。
これを受けて、1972年(昭和47)5月15日の沖縄の本土復帰と同時に、琉球大学は国に移管され、正式に国立大学となった。あわせて、大学設置基準に照らして著しく不足していた教員の増員、附属病院の設置や学部・学科構成の再編など、国立大学としての制度整備が進められた[15]。
また、学生は離島や本島僻地の出身者が多く、経済事情に配慮して、復帰前の学費は他の国立大学の3分の1程度に抑えられていたが、1973年度入学生からは他の国立大学と同じ年額3万6千円に一挙に値上げされることになり、学生による反対運動に発展した[14]。
千原・上原キャンパスへの移転
学生増加とともに狭隘な首里キャンパスは問題となり、1965年(昭和40)には施設拡充研究委員会が3つの移転先候補地から「宜野湾市、中城村、西原村の接点地域」を最適地と答申しており、1967年(昭和42)からキャンパス移転先用地購入・移転補償が開始されたが、交渉は難航し、本格的に動き始めるのは日本復帰後であった[16][17]。国立移管後の1972年(昭和47)には大学設置基準の基準面積の約18%、校舎が約54%と狭隘で、これ以上の新築や増築が困難となり、国立移管後の大学として相応しい広さのキャンパスへの移転が求められていた[16]。 一方で、大学移転後を見据え、1970年(昭和45)に琉球政府文化財保護委員会が首里城の復元構想を提案し、1973年(昭和48)に発足した「首里城復元期成会」で首里城の復元が議論されていた[18]。
1975年(昭和50)12月の新キャンパスでの農学部附属農場造成工事を最初に、整備・移転工事が開始され[19]、1977年(昭和52)から1984年(昭和59)にかけて西原町などの丘陵地にある千原(せんばる)キャンパスと上原(うえはら)キャンパスへの移転が実施された(移転時の通称は「千原団地」と「上原団地」)[16]。
移転後に首里キャンパスは解体され、グラウンドは沖縄県立芸術大学に譲渡された。1984年(昭和59)に沖縄県が「首里城公園基本計画」を策定し、国・沖縄県・那覇市により首里城公園およびその周辺地域の整備が進められた[18]。
国立大学法人化と、病院及び医学部の西普天間キャンパスへの移転
2004年(平成16)には、国立大学法人法の規定により国立大学法人による設置へと移行した。 2025年(令和7)には、上原キャンパスの病院及び医学部は、施設・設備の老朽化、米軍基地跡地(2015年(平成27)返還のキャンプ・フォスター西普天間住宅地区跡地)の利用、沖縄本島中部に高度医療拠点の設置の観点から、宜野湾市の西普天間キャンパスに移転した[20]。
年表

- 1946年(昭和21年)沖縄民政府文教部長の山城篤男が沖縄民政府部長会議に大学設立を提案し、軍政府教育部長のスチュワート少佐に大学設置を要請[21]。
- 1947年(昭和22年)
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)
- 1950年(昭和25年)
- 1951年(昭和26年)
- 1月10日 - 琉球大学に関する基本法(琉球列島米国民政府令第30号)が制定され、同基本法により琉球情報教育委員会は琉球大学理事会となる[4][29]。
- 2月12日 - 開学式典を挙行[21]。
- 5月 - アメリカ教育評議会会長のアーサー・S・アダムズ(英語: Arthur S. Adams)が、ミシガン州立大学などアメリカの20の大学に、創立されたばかりの琉球大学の成長を援助する大学の募集する旨の書簡を送る[21]。
- 6月 - アメリカ教育評議会は応募した7大学からミシガン州立大学を選出[21]。
- 9月1日 - 林学部を設置[4]。
- 9月25日 - ミシガン州立大学から派遣された5人の教職員に対し琉球大学で新任式を挙行、これ以降1968年(昭和43)までの約18年間にわたり延べ51人が派遣される「ミシガン・ミッション」が実施される[21]。
- 1952年(昭和27年)
- 1953年(昭和28年)
- 1954年(昭和29年)4月1日 - 新学則により文理学部・教育学部・農家政学部に統合・編成[4]。
- 1955年(昭和30年)12月11日 - 初代学長志喜屋孝信を記念した志喜屋記念図書館の落成・開館式挙行[32]
- 1956年(昭和31年)
- 1958年(昭和33年)10月 - 農家政学部を「農家政工学部」に改称[4]。
- 1964年(昭和39年)4月 - 集中講義のための教授招聘・渡航を米国民政府が拒否し、学生を中心とする運動により撤回(永積教授渡航拒否事件)(〜9月)[34]。
- 1965年(昭和40年)
- 1966年(昭和41年)7月1日 - 琉球大学設置法及び琉球大学管理法により、米国民政府から琉球政府に移管され[4]、琉球大学委員会の管理下に置かれる。短期大学部を併設(学生受け入れは1967年4月1日から)[4]。
- 1967年(昭和42年)
- 1968年(昭和43年)
- 1969年(昭和46年)2月4日 - 最初の学生ストライキ、この後の学生運動及び大学紛争は1973年前半までがピーク[14]。
- 1970年(昭和45年)
- 1971年(昭和46年)4月 - 那覇市松川の保健学部寮での学生による不法占拠・自主管理(~1973年(昭和48)6月)[14]。
- 1972年(昭和47年)5月15日 - 沖縄の本土復帰により、国(文部省)に移管されて国立大学となり、琉球大学附属病院は琉球大学保健学部附属病院となる[4]。
- 1974年(昭和49年)3月 - 移転整備計画案を策定[16]。
- 1975年(昭和50年)
- 1977年(昭和52年)
- 1979年(昭和54年)
- 1981年(昭和56年)4月1日 - 保健学部を医学部保健学科に改組し、琉球大学保健学部附属病院は琉球大学医学部附属病院となる[4]。
- 1982年(昭和57年)3月15日 - 首里キャンパスの大学本部で表札降納式[36]。
- 1985年(昭和60年)11月2日 - 移転完了祝賀会開催[37]
- 1989年(平成元年) - 首里時代の記憶を残すために、同窓会主導で千原キャンパス内に「首里の杜」整備 [38]
- 1996年(平成8年)9月30日 - 短期大学部を廃止[4]。
- 1997年(平成9年)3月31日 - 教養部を廃止[4]。
- 2004年(平成16年)4月1日 - 国立大学法人化[4]。
- 2008年(平成20年)4月1日 - 法文学部から産業経営学科と観光科学科が分離し、観光産業科学部として独立。
- 2015年(平成27年)6月30日 - 政府の骨太方針で「琉球大学医学部と附属病院の移設など、高度な医療機能の導入を始めとする駐留軍用地の跡地利用の推進を図ること」を明記[39]。
- 2018年(平成30年)4月 - 観光産業科学部、法文学部を国際地域創造学部、人文社会学部に改組[40]。
- 2019年(平成31年)4月 - 教育学研究科修士課程の学生募集を停止し、専門職学位課程の一課程となる。
- 2020年(令和2年)
- 2021年(令和3年)3月 - 西普天間キャンパスの病院工事着手[39]。
- 2022年(令和4年)
- 2025年(令和7年)
キャンパス
2025年(令和7)時点では「千原(せんばる)キャンパス」と「西普天間(にしふてんま)キャンパス」の2キャンパスとなっており、敷地は西原町・中城村・宜野湾市の3市町村にまたがっている。2つのキャンパスの総面積は約126万平方メートルで、東京ドーム約27個分の敷地面積である。うち、西原キャンパスは112万平方メートルである。
千原キャンパス

所在地
使用学部・施設
概要
千原キャンパスの中央に千原池があり、この池を境に南北に学部が配置されている。千原池の東・南側(中城村側)に国際地域創造学部・人文社会学部・教育学部・理学部・大学事務局・中央生協などが、北側(宜野湾市側)に農学部・工学部・北食堂・千原寮などがある。
千原キャンパス構内には環状の片側1車線道路(通称「ループ道路」)が整備され、3つある構外との出入り口(東口、北口、南口)および附属小中学校前、保健管理センター前の合計5箇所に信号機が設置されている。キャンパスは那覇中心街から離れた場所にあり、かつ公共交通機関がバスのみであるため(2009年(平成21年)1月時点、路線バスは北口に7系統、東口に3系統)、多くの教職員・学生が自動車や原付バイクなどで通勤・通学している。自動車の駐車スペースを確保するため入構許可制を採っており、入構証を自動車の見える場所に提示することによって、入構の許可・不許可を判断することになっている。なお、原則として片道2キロメートル以内の通勤・通学者には入構証は発行されない。入構証がない場合、校門守衛において入構を拒否される。
構外との出入り口は、千原キャンパスの敷地がまたがる3つの市町村に各々設置されており、宜野湾市の北口(宜野湾口)、西原町の南口(西原口)、中城村の東口(中城口)があるが、すべてが正門とされている。しかし夜間や休日には南口と東口は閉門されるものの、北口は路線バスの乗り入れもあり開門されている。なお、大学本部は西原町の地番に所在しているため、大学の住所は西原町となっている。また、東口側に教育学部附属の小学校と中学校がある。
西普天間キャンパス

使用学部・施設
概要
2015年返還のキャンプ・フォスター西普天間住宅地区の跡地に位置し、2025年1月から使用されている[43]。また、西普天間住宅地区全体の区画整理事業終了後(2027年度以降)、宜野湾市において住居表示を行う予定であり、その際に琉球大学側はキャンパス名を再検討するとしている[45]。
旧上原キャンパス
所在地
沖縄県中頭郡西原町字上原207番地(地図を表示)
旧使用学部・施設
- 医学部
- 琉球大学病院
- 附属図書館医学部分館
概要
2025年3月まで使用されていた[43]。キャンパスの名称は異なっているが、千原キャンパスからは住宅地を挟んでいるものの、わずか230メートルしか離れていなかった。ただしバス停は別々であった。
教育・研究
教育
沖縄県唯一の国立総合大学として、人文・社会科学から自然科学、教員養成、医療系までを包含する教育体制を有し、2025年度時点で7学部14学科1課程および9研究科を設置し、学生数は約7,800人である[46]。
2020年代から教学マネジメントの強化を進めており、2024年には学長直轄の「教学マネジメント推進室」を設置し、学生の学修成果を可視化し、教育の質保証と継続的改善を図る体制を整備している。学士課程教育では独自の教育目標として「URGCC(University of the Ryukyus Global Citizen Curriculum)」を掲げている。URGCCでは、自律性、社会性、地域・国際性、コミュニケーション能力、情報リテラシー、問題解決力および専門性の7つの能力を重視し、地域社会および国際社会で活動できる人材育成を目指している[47]。
大学の教育理念では、沖縄の自然・歴史・文化から形成された知識や経験を「Island Wisdom(島の叡智)」として位置付け、地域課題の解決とグローバルな課題への応用を柱としている[48]。
国際教育
国際教育の一環として、「インターアイランド・サステナビリティ教育プログラム」[49]を実施し、同プログラムは2023年度に文部科学省「大学の世界展開力強化事業」に採択され、ハワイや台湾の大学との連携により運営され、再生可能エネルギー、環境問題、ウェルビーイング、人権など島嶼地域に共通する課題をテーマに、オンライン交流や短期派遣・受入研修を行っている。沖縄・ハワイ・台湾の学生が共同で学ぶことで、国際的視野と地域課題への対応力の育成を図っている[50]。
豊富な共通科目
研究
研究は、沖縄の地理的・自然環境的特性を活かした分野を特色としている。大学は「地域とともに豊かな未来社会をデザインする大学」および「アジア・太平洋地域の卓越した教育研究拠点となる大学」を長期ビジョンとして掲げている。2024年度の科学研究費助成事業の採択件数は303件、受入額は約5億7,800万円であった。また、特許の累計保有件数は111件である[46]。
医療・生命科学研究

西普天間キャンパスへの移転に伴い、新設された先端医学研究センターでは、沖縄地域[健康課題、希少疾患研究、地域資源を活用した創薬研究などを推進しており、産学連携を目的としたレンタルラボを整備している。医療分野では、AI技術を活用した医療研究やデジタル医療基盤の整備をすすめており、琉球大学病院は沖縄県唯一の特定機能病院として高度医療・臨床研究を担っている[52]。
島嶼・環境研究
亜熱帯・島嶼地域に位置する特性を活かし、生物多様性、環境保全、持続可能な資源利用に関する研究を重点分野としており、「琉球弧の生物文化多様性」を長期ビジョンにつながる研究の一つとして位置付けている。また、文部科学省と科学技術振興機構(JST)による産学連携プログラム「COI-NEXT(共創の場形成支援プログラム)」に採択され、農業と水産業を組み合わせた「資源循環型農水一体型陸上養殖プロジェクト」[53]を推進しており、人口増加や食料問題への対応を見据えた新産業創出と資源循環型社会の構築を目指している。 さらに、GNSS(全球測位衛星システム)やGIS(地理情報システム)を活用したスマート農業の研究を進め、省エネルギー化や生産性向上に関する実証実験を行っている[54]。
国際共同研究
アジア・太平洋地域との研究連携を重視し、国際的な研究者交流を推進しており、2024年度には本学研究者386人を海外へ派遣し、外国人研究者117人を受け入れた[46]。
21世紀COEプログラム
21世紀COEプログラムには1件が採択されている。
組織構成
学部
- 国際地域創造学部[40]
- 国際地域創造学科
- 国際言語文化プログラム(夜間主あり)
- 地域文化科学プログラム
- 観光地域デザインプログラム
- 経済学プログラム(夜間主あり)
- 経営プログラム(夜間主あり)
- 国際地域創造学科
- 人文社会学部
- 国際法政学科
- 法学プログラム
- 政治・国際関係学プログラム
- 人間社会学科
- 哲学・教育学プログラム
- 心理学プログラム
- 社会学プログラム
- 琉球アジア文化学科
- 歴史・民俗学プログラム
- 言語学プログラム
- 文学プログラム
- 国際法政学科
- 法文学部(2018年度に募集停止)
- 総合社会システム学科
- 法学専攻課程
- 政治・国際関係専攻課程
- 経済学専攻課程(夜間主あり)
- 人間科学科
- 人間行動専攻課程
- 社会学専攻課程
- 地理歴史人類学専攻課程
- 国際言語文化学科
- 琉球アジア文化専攻課程
- ヨーロッパ文化専攻課程
- 英語文化専攻課程(夜間主あり)
- 総合社会システム学科
研究科
専攻科
- 特別支援教育特別専攻科
- 知的障害教育専攻
附属施設

- 学内共同利用施設等
- 外国語センター
- 博物館(風樹館)
- 極低温センター
- 大学教育センター
- 大学評価センター
- 就職センター
- 島嶼防災研究センター
- 国際沖縄研究所
- 研究推進戦略室
- 亜熱帯島嶼科学超域研究推進機構
- アドミッション・オフィス
学部附属の教育研究施設
- 医学部附属
- 実験実習機器センター
- 動物実験施設
- 工学部附属
- 工作工場
- 農学部附属
- 亜熱帯フィールド科学教育研究センター
学寮

大学が運営する学寮として千原寮(せんばるりょう)が設置されている。千原キャンパスの北口(宜野湾口)のそばに位置し、男子寮6棟(南星棟・北辰棟・海邦棟・男子混住棟・男子新混住棟・男子新棟)と女子寮4棟(紫陽花棟・女子混住棟・女子新混住棟・女子新棟)および共用棟と呼ばれる学寮事務室と自販機を備えた談話室(ホール)からなる。
全棟鉄筋コンクリート造で、全部屋個室。居住者専用駐車場が設けられている。
文化財
対外関係
産学官連携
窓口として地域連携企画室や研究推進機構を設けている[57]。具体的な産学官連携の事例としては、オリオンビールと国連持続可能な開発目標(SDGs)実現への連携協定を締結[58]するなどしている。
国際協力
留学や研究で交流協定を結んでいる海外の大学・機関が、大学間協定では84、部局間協定では42ある(2020年10月5日時点)[59]。
九州・沖縄オープンユニバーシティ(KOOU)
琉球大学を含む九州・沖縄地区の11国立大学法人(九州大学、九州工業大学、福岡教育大学、佐賀大学、長崎大学、熊本大学、大分大学、宮崎大学、鹿児島大学、鹿屋体育大学、琉球大学)が2023年3月21日に覚書を締結した大学間連携[60]。
アクセス
バス
一般道経由
- 94番 首里駅 - 琉大附属病院前 - 琉球大学構内 - 琉大駐車場(平日のみ1日4本運行)
- 97番 那覇バスターミナル - 儀保(沖縄都市モノレール線(ゆいレール)儀保駅) - 琉球大学病院前 - 琉大附属学校前 - 琉大東口 - 琉大北口(平日昼間25分間隔、土休日は30 - 40分間隔、那覇BT - 琉大北口の所要時間約60分)
- 98番 豊崎美らSUNビーチ - 道の駅豊崎 - 旭橋 - 古島駅前 - 沖縄国際大学前 - 琉大北口 - 琉大駐車場(平日昼間25分間隔、土休日は30 - 40分間隔、旭橋 - 琉大北口の所要時間約45分)
- 125番 那覇空港国内線ターミナル - 旭橋 - 普天間 - イオンモール沖縄ライカムのうち、平日1本普天間方面行きのみ琉大東口を経由。
- 294番 ゆいレールてだこ浦西駅 - 琉大附属病院前 - 琉球大学構内 - 琉大駐車場(平日のみ1日12本運行)
- 297番 ゆいレールてだこ浦西駅 - 浦西団地入口 - 沖縄国際大学前 - 琉大北口 - 琉大駐車場(実証運行、平日のみ1日12本運行)
- 護佐丸バス(中城村コミュニティバス)
- 久場琉大線(朝2便、土日祝日や学校の夏休み・冬休み・春休み期間、年末年始は運休)
- 久場回り線(平日5便、土日祝日や年末年始は運休)
- 伊集回り線(平日5便、土日祝日や年末年始は運休)
高速バス
キャンパス付近を通る沖縄自動車道上に「琉大入口」バス停が設けられており、同道路経由の高速バスが停車する。
- 111・117番 那覇空港国内線ターミナル - 旭橋 - 琉大入口 - 名護 - [117番のみ]本部(30 - 45分間隔、那覇空港 - 琉大入口の所要時間38分、旭橋 - 琉大入口26分)
- 113番 那覇空港国内線ターミナル - 旭橋 - 琉大入口 - コザ - 具志川(平日1日5往復、土曜日1日6往復、休日運休)
- 123番 那覇空港国内線ターミナル - 旭橋 - 琉大入口 - コザ - 東山駐車場(平日1日1往復、土休日運休)
- 127番 那覇バスターミナル - 琉大入口 - コザ - 屋慶名(平日1日1.5往復、土休日運休)
- 152番 那覇空港 - 那覇バスターミナル(旭橋) - 国場 - 那覇インター前 - 琉大入口 - 中城 - イオンモール沖縄ライカム(1日4往復)
- 888番 那覇空港 - 県庁北口 - 古島駅前 - 琉大入口 - 名護 - 本部 - 今帰仁(1日13往復)
自動車などのアクセス
大学関係者と組織
琉球大学同窓会
1954年(昭和29)12月4日に第1回と第2回卒業生の148名で結成・発足し、1974年(昭和59)7月4日の臨時総会で、会員を「卒業生と在学生等」で組織すると会則5条を改定した[61]。 同窓会は、給付型奨学金や教員候補者選考試験対策講座といった学生への支援事業のほか、会報の発行、周年記念事業、同窓会・支部での交流活動などを展開している[62]。
琉球大学出版会
学術書や教科書の刊行による研究・教育・学修への寄与、教養書の刊行による学術成果の広く社会への還元のため、2023年(令和5)7月5日に設立された。同出版会は学長が会長を兼任する学内組織の一部で、出版会運営委員会が運営、附属図書館事務部が事務を行っており、2026年(令和8)3月に出版物第1号として、渋谷和彦著『経営組織論:計算社会科学的組織論』を刊行した[63][64]。
大学関係者一覧
備考
- 2006年9月30日より全国東宝系映画館で上映の映画『涙そうそう』の主要ロケ地として使われたことでも有名である(劇中でも当大学と同じ名称、学部名を使用)。
- 本部が西原町にあるため、警察はキャンパス全体が浦添市、西原町の2市町を管轄している浦添警察署の管轄となっている。一部施設は中城村に所在するが、宜野湾警察署は管轄外となっている。なお、最寄交番は坂田交番(西原町棚原)となっている。
- 琉球大学学生会は、マル学同革マル派系の学生が執行部を握っている[要出典]。彼らによる人権侵害事件が起こっており、有名なものでは1975年、琉球大学に入学した自衛官が集団リンチを受け[要出典]、退学に追い込まれた事件などがある[65]。
- 日本経済新聞那覇支局長だった大久保潤によると、琉球大学出身者が沖縄の政界、沖縄電力や銀行や建設大手等の財界、沖縄県庁等の官界、マスコミ、学識者の中枢を占め、沖縄社会の意思決定に関わっており、「これほど一つの大学出身者が社会を支配している県は他にはない」と論評している[66]。