原田二郎
日本の実業家
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経歴
青年期

嘉永2年10月10日(1849年11月24日)、伊勢国松阪城下の同心町(現・三重県松阪市殿町)に生まれた[1]。父は東谷小平次の四男である清一郎、母は田中彦左衛門の長女である時雨子であり、いずれも原田家に養子に入った人物である[2]。幼名は徳松であり、上京する頃までこの名前を用いた[3]。原田家は下級武士の家であるが[4]、徳松は文武両道に秀でており、14歳だった文久2年(1862年)には松阪学問所から褒章を受けている[1]。慶應元年(1865年)には和歌山藩に召し抱えられて松阪町奉行組同心となった[1]。
上京後
明治維新後の1869年(明治2年)には、同郷の京都府判事である世古延世に従って京都に出たが、1871年(明治4年)には東京に出て英語と医術を学ぶとともに、1871年(明治4年)には横浜に出て洋学を学んだ[1]。1875年(明治8年)には大蔵省に入省して銀行課に勤務した[5]。1879年(明治12年)には横浜の第七十四国立銀行頭取に就任したが、下級官僚が頭取に抜擢されるのは異例だったとされる[6]。しかし1881年(明治14年)には高島町遊廓の移転問題で損失を計上し、辞任して松阪に帰郷した[7]。1887年(明治20年)には再び上京し、同郷の歌人である佐々木弘綱宅離れを住まいとすると、その息子の佐佐木信綱をかわいがった[8]。この頃には本所と佐原を結ぶ総武鉄道株式会社(現・JR総武本線)の設立に関与した[9]。1889年(明治22年)4月8日、父の清一郎から原田家の家督を継いで10代目当主となった[2]。
鴻池時代

1899年(明治32年)には鴻池銀行東京支店監督に就任し、翌年には鴻池銀行本店相談役兼東京支店監事に就任すると、1902年(明治35年)には鴻池銀行理事兼本分家家政副監督に就任し、1907年(明治40年)には鴻池銀行専務理事に就任した[1]。井上馨と初めて出会ったのは1902年(明治35年)のことであり、井上は原田を高く評価して交友を続けた[10]。1914年(大正3年)には第2次大隈内閣の成立に尽力した[1]。日本信託興業と帝国朝日銀行の創設にも携わっている[5]。政治家の尾崎行雄は松阪を地盤としており、原田は尾崎の選挙資金を援助していた[8]。
財団設立と死去
1919年(大正8年)に鴻池家副監督を辞職すると、1920年(大正9年)には全財産1020万円(2020年の価値で150億円)を寄付して財団法人原田積善会を設立した[1]。1921年(大正10年)には紺綬褒章を受け、1924年(大正13年)には勲二等瑞宝章を受けた[1]。
1930年(昭和5年)5月5日、東京市麻布区市兵衛町で死去した[1]。松阪市の樹敬寺に原田家墓所があるが、東京の青山霊園にも分骨されている。
没後

近くには国指定史跡である「本居宣長墓(樹敬寺)附 本居春庭墓」の墓がある
一周忌の1931年(昭和6年)、歌人の佐々木信綱は『原田嘉朝集』を編纂した[8]。1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)にかけて、原田積善会によって『原田二郎伝』が出版された[11]。
原田積善会
家系図
- 原與太夫 - 初代当主。貞享2年(1685年)死去[13]。
- 原與太夫 - 2代当主。元禄2年(1689年)死去[13]。2代から樹敬寺が原家(原田家)の菩提寺となった[13]。
- 原與一郎 - 3代当主。元禄12年(1699年)死去[13]。
- 原平兵衛 - 4代当主。初代から4代も和歌山藩に仕えたと思われる[13]。宝暦元年(1751年)死去[13]。
- 原平兵衛 - 5代当主。和歌山藩に仕えた松阪町奉行組同心[14]。寛政6年(1794年)死去[14]。
- 原弥兵衛 - 6代当主。和歌山藩に仕えた松阪町奉行組同心[14]。享和8年(1808年)死去[14]。
- 原忠兵衛 - 7代当主。和歌山藩に仕えた松阪町奉行組同心[14]。文化13年(1816年)死去[14]。
受章・受賞
- 1921年(大正10年) 紺綬褒章
- 1924年(大正13年) 勲二等瑞宝章
著書
- 詩歌集『原田嘉朝集』1931年