古今亭志ん馬
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直近の志ん馬は落語協会のウェブサイトでは7代目と記載されており、4代目古今亭志ん生が名乗った志ん馬を初代とし以降カウントしている。
また同じ読みの名跡に「三遊亭新馬」がある。

- (土橋亭/翁屋)志ん馬 - 『為御欄噺連中帳』(天保10年)、『当時高名』(弘化2年・3年)によると、2代目三笑亭可楽の門人に「志ん馬」が確認されている[要出典]。
- 土橋亭志ん馬 - 初代土橋亭里う馬の息子で、「里う太」から初代隅田川馬石の養子となり、寛永末頃に「土橋亭志ん馬」となった[1]。明治10年代に廃業して、長野県上田で料理屋を兼ねた寄席主になっていたという[1]。俗称∶安二郎[1]。
- 土橋亭志ん馬 - 後∶為永春雅[要出典]
- 古今亭志ん馬 - 最初は初代三遊亭圓馬門下で「三遊亭新馬」、その後2代目古今亭志ん生の門に移って「志ん馬」となる[1]。
- 古今亭志ん馬 - 『文之助系図』によると、2代目古今亭志ん生の門下で、「古今亭志ん三」から「志ん馬」となった[1]。『落語家名前欄』には1890年5月に見える、本名∶森川 勇次郎が同一人物と『古今東西落語家事典』は推察している[1]。
- 初代古今亭志ん馬 - 後∶4代目古今亭志ん生[1]
- 2代目古今亭志ん馬 - 本項にて記述
- 3代目古今亭志ん馬 - 後∶5代目古今亭志ん生[1]
- 4代目古今亭志ん馬 - 後∶8代目金原亭馬生[1]
- 5代目古今亭志ん馬 - 後∶2代目古今亭甚語楼[1]
- 6代目古今亭志ん馬
- 7代目古今亭志ん馬
| 2代目 | |
| 本名 | 金川 利三郎 |
|---|---|
| 別名 | 横浜の志ん馬 |
| 生年月日 | 1889年3月26日 |
| 没年月日 | 1961年8月2日(72歳没) |
| 出身地 | |
| 師匠 | 2代目林家染丸 3代目古今亭志ん生 |
| 名跡 | 1. 笑福亭三喬 (1904年 - 1912年) 2. 林家染之助 (1912年 - ?) 3. 古今亭錦生 (? - 1917年) 4. 2代目古今亭志ん馬 (1917年 - 1961年) |
| 活動期間 | 1904年 - 1961年 |
| 所属 | 睦会 誠睦会 |
2代目 古今亭 志ん馬(1889年3月26日 - 1961年8月2日)は、明治から昭和にかけての落語家[2]。本名∶金川 利三郎[2]。俗に「横浜の志ん馬」[2]。上方落語から江戸落語に移った人物である。
3代目笑福亭松鶴の生家から一軒置いた家に生まれる[2]。生まれは上方だが、祖父は横浜出身だった[2]。
金甌商業学校学生だった15歳の時に、5代目笑福亭松喬に入門する[2]。「笑福亭三喬」を名乗り、学校は中退した[2]。
1912年に師が2代目林家染丸を襲名したことに伴い「染之助」を名乗る[2]。1914年に上京して興行する上方落語家12人の一員となる[2]。横浜の寄席・新富亭の高座で好評を得たところを初代立花家橘之助に着目され、橘之助の援助で3代目古今亭志ん生の門下となり「古今亭錦生」を名乗る[2]。以後、東京の寄席で活動する。1917年は同年発足した睦会の若手の真打昇進が相次ぎ、自身も8月に真打に昇進して「2代目古今亭志ん馬」を襲名する[2]。同時に昇進した翁家馬之助・春風亭柏枝とともに「睦会の若手三羽烏」と称された[2]。
月給制の演芸会社を支持する「会社派」に反対する目的で、給料を受け取りながら出演を拒否し、損害賠償の訴えを起こされる事態に発展する[2]。しかし「二千円の損害賠償を受けし問題の人」と呼び込みに書き入れるしたたかな対応をする[2]。さらに上方の出身噺家を集めて誠睦会を設立したりした[2]。
昭和に入った時期から落語からは退き、趣味に没頭して余生を過ごした[2]。後述する著書『納札大使』(1924年)に記した文章では「漸く多年の宿願成就し芸界を去りて」納札の研究や実践に打ち込めるようになったという趣旨の内容が記されている[3]。